「文禄・慶長の役」の版間の差分

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1月6日より戦闘が開始された([[第三次平壌城の戦い]])。明軍には朝鮮軍8,000人が加わり{{Sfn|旧参謀本部|1995|p=209}}、明・朝鮮軍は合計51,000人余りとなっていた(明軍43,000、朝鮮軍8,000)。明軍は[[フランキ砲|仏狼機(フランキ)砲]]、大将軍砲、霹靂砲などの火器の攻撃によって平壌城の外郭守備は破られ、小西軍は内城に籠った。しかし、日本軍の鉄砲火器が予想外の装備であったため、李将軍は無理攻めによる自軍の犠牲を考慮し、包囲の一部を解いて、小西軍の退却を促し、追撃戦とすることにした<ref name="kasayakuroda"/><ref>「懲毖録」柳成龍 朴鐘鳴訳 平凡社 東洋文庫 1979年 179頁</ref>。
 
1月7日夜、小西軍は脱出した。翌日、明軍は精騎3000人で追撃を開始、日本軍は360余が討たれた<ref>[http://zh.wikisource.org/zh-hant/%E6%98%8E%E5%8F%B2/%E5%8D%B7238#.E5.AD.90_.E5.A6.82.E6.9D.BE 明史 卷238] "夜半,行長渡大同江,遁還龍山。甯及参査大受率精卒三千潛伏東江間道,復斬級三百六十"</ref>(異説あり<ref>「我國無一人出撃、天兵又不追之、獨李時言尾其後不敢逼、伹斬飢病落後者六十餘級」(『懲毖録』。[[史料稿本]]による)、「敵は日本人たちを追跡して来なかった。話によると彼らの多くは負傷しており、継続した戦闘で疲労していたし、大軍が移動するのには時間を要した。ことにシナ軍の武器は、前にも述べたように非常に重く、逃亡する敵を追跡するにあたっては迅速、かつ容易に取り扱いかねたのもその理由であった」(『完訳フロイス日本史5』42章、本来の第3部53章)</ref>)。第3次平壌城の戦いでの日本側の死者は合計1560人あまりという<ref>[http://zh.wikisource.org/zh-hant/%E6%98%8E%E5%8F%B2/%E5%8D%B7238#.E5.AD.90_.E5.A6.82.E6.9D.BE 明史 卷238] "倭砲矢如雨,軍少卻。如松斬先退者以徇。募死士,援鉤梯直上。倭方輕南面朝鮮軍,承訓等乃卸裝露明甲。倭大驚,急分兵捍拒,如松已督副將楊元等軍自小西門先登,如柏等亦從大西門入。火器併發,煙焰蔽空。惟忠中砲傷胸,猶奮呼督戰。如松馬斃於砲,易馬馳,墮塹,躍而上,麾兵益進。將士無不一當百,遂克之。'''獲首功千二百有奇'''。倭退保風月樓。夜半,行長渡大同江,遁還龍山。甯及大受率精卒三千潛伏東江間道,'''斬級三百六十''' "</ref>
<ref>http://sillok.history.go.kr/popup/viewer.do?id=wna_12601011_013&type=view&reSearchWords=&reSearchWords_ime= 「朝鮮王朝実録」1593年1月11日 "是日天兵當陣斬獲一千二百八十五級"</ref>
{{Refn|group=注|旧参謀本部・日本戦史においても、日本側戦死者を1600人としている{{Sfn|旧参謀本部|1995|p=209}}。}}。また、朝鮮王朝実録によれば、第3次平壌城の戦いで明軍が得た1285の首級の内、半分が朝鮮人の民の者であり、戦闘中に焼死したり溺死した1万人も皆朝鮮の民だったという<ref>http://sillok.history.go.kr/popup/viewer.do?id=wna_12601011_013&type=view&reSearchWords=&reSearchWords_ime= 「朝鮮王朝実録」1593年1月11日 "李如松 平壤之役, 所斬首級, 半皆朝鮮之民, 焚溺萬餘, 盡皆朝鮮之民。"</ref>。
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<ref>明史/卷238 "初,官軍捷平壤,鋒鋭甚,不復問封貢事。及碧蹄敗衄" https://zh.m.wikisource.org/wiki/明史/卷238</ref>
<ref>明史/卷320 "如松既勝,輕騎趨碧蹄館,敗,退駐開城。" https://zh.m.wikisource.org/wiki/明史/卷320</ref>
<ref>明史/卷322 "如松乘勝趨碧蹄館,敗而退師。" https://zh.m.wikisource.org/wiki/明史/卷322</ref>([[碧蹄館の戦い]])。この戦いで明軍は大きな損失をだし<ref>明史/卷238 "官軍喪失甚多。會天久雨,騎入稻畦中不得逞。倭背嶽山,面漢水,聯營城中,廣樹飛樓,箭砲不絕,官軍乃退駐開城。" https://zh.m.wikisource.org/wiki/明史/卷238</ref>(一説に戦死者6000人{{Sfn|旧参謀本部|1995|p=213}})、総司令官・李如松は危うく討ち死に寸前まで追い込まれたが、平壌まで退却した。李如松の麾下の親衛隊の内、李有升ら勇士80人余りも戦死した<ref>http://sillok.history.go.kr/popup/viewer.do?id=wnb_12601001_003&type=view&reSearchWords=&reSearchWords_ime= ''朝鮮王朝実録'' "提督麾下李有升及勇士八十餘人被砍死,"</ref>。
この戦いの敗北によって李如松は戦意を喪失して明軍の勢いはそがれ、武力による日本軍撃退方針を諦めて講和交渉へと転換する。
碧蹄館の戦いに関し、朝鮮王朝実録には「天兵(中国兵)短劍、騎馬, 無火器, 路險泥深, 不能馳騁, 賊(日本軍)奮長刀, 左右突鬪, 鋒鋭無敵。」という記述があり<ref>http://sillok.history.go.kr/popup/viewer.do?id=wnb_12601001_003&type=view&reSearchWords=&reSearchWords_ime= ''朝鮮王朝実録'' "○宋經略進住安州, 提督李如松進兵坡州, 戰于碧蹄驛, 不利, 退住開城。 提督引大軍而南, 柳成龍先行促辦糧草, 幸不乏供。 臨津氷解, 乃從上流薄氷上, 聯葛索布籬, 作梁以渡軍, 列邑士民始從山谷出, 竭力搬運, 事皆隨辦。 提督徐行至坡州, 持重不前。 査大受與我將高彦伯, 領兵數百, 先行偵探, 至京城西, 遇賊於碧蹄驛南礪石峴, 斬百餘級。 提督聞之大喜, 獨與親丁騎兵千餘馳赴之, 令大軍繼發。 賊先伏大兵於峴後, 只數百人據峴示弱。 提督卽麾兵進, 賊自峴而下, 兵未交, 賊兵猝起於後, 結陣山上, 幾萬餘。 天兵短劍、騎馬, 無火器, 路險泥深, 不能馳騁, 賊奮長刀, 左右突鬪, 鋒銳無敵。 提督麾下李有升及勇士八十餘人被砍死, 提督使査大受殿後, 奪路而出, 大軍繼至, 賊望見還走。 提督暮還坡州, 召李有升壻王審大, 拊背慟哭曰: "好男兒, 爲我死也。" 提督欲退住東坡, 柳成龍、兪泓、金命元等, 叩帳請見曰: "勝負, 兵家常事, 當觀勢更進, 奈何輕動?" 提督曰: "昨日吾軍無不利事, 但此地經雨泥濘, 不便住軍, 所以欲還東坡, 休兵更進耳。" 遂退陣東坡。 明日退住開城, 成龍等力爭不聽, 獨留査大受領兵數百, 與柳成龍守臨津。"</ref>、李如松軍のために兵糧等の手配もしていた朝鮮の[[宰相]]である[[柳成龍]]が著述した[[懲毖録]]には、「李如松提督が率いていたのは皆北方の騎兵で火器を持たず只切れ味の悪い短剣を持っていただけだった。一方賊(日本軍)は歩兵でその刀剣はみな3,43・4尺の切れ味無比のものだったから、衝突激闘してもその長刀を振り回して斬りつけられるので人も馬も皆倒れ敢えて立ち向かうものはなかった。提督は後続軍を呼び寄せたが、その到着以前に先軍は既に敗れ死傷者が甚だ多かった。日暮れに提督は坡州に戻った。その敗北を隠してはいたものの、気力を沮喪すること甚だしく、夜には親しく信頼していた家丁の戦死を痛哭した。」とある。
 
2月12日、[[幸州山城の戦い|幸州の戦い]]。朝鮮軍は1日目の攻撃を撃退したものの、[[権慄]]は日本軍の攻撃を危惧して城を放棄し<ref name="kasayakuroda"/>、[[坡州市|坡州]]まで退却した<ref>中野2008, 104頁</ref>。[[懲毖録]]によれば、[[権慄]]はこの戦闘後、日本兵の死体を集め、「肢体を裂いて林の木のあちこちに掛けさせ、その憤りをはらした」という<ref>中野2008, 104頁</ref>。
 
=== 加藤清正の漢城帰還 ===