「オルク・テムル」の版間の差分

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同年、オルク・テムル・ハーンとアルクタイは軍を率いて[[チョロース]]部の[[マフムード (オイラト)|マフムード]]と戦ったが、オルク・テムルらはマフムード率いるオイラト軍に大敗し退却を余儀なくされた。モンゴル高原の情勢が不穏になってきたことを察知した永楽帝は北辺の守将たちに命じて、オルク・テムル・ハーンに備えさせた<ref>『明太宗実録』永楽元年十月戊午「通西事鎖飛自迤西還。初鎖飛与鎮撫荅哈帖木児等奉命使迤西。時鬼力赤・阿魯台方率衆与瓦剌馬哈木戦、馬哈木大敗之、尽掠其人馬、居兀魯班答迷之地。答哈帖木児・鎖飛皆為所留、鎖飛夜竊其馬馳帰備言虜中事。上曰、鬼力赤既敗、瓦剌或南行、以逞雖未敢深入、亦当有備。遂勅辺将、各厳兵待之」</ref>。また、翌永楽2年([[1404年]])にもオルク・テムルはオイラト軍に敗北したため、早くもモンゴル内の内部対立が露見するようになった<ref>『明太宗実録』永楽二年七月辛酉「勅甘粛総兵官左都督宋晟曰、近兀良哈有人来言、虜酋也孫台・阿魯台・馬児哈咱各懐異見。去年大敗瓦剌、今春瓦剌亦敗鬼力赤。又云、鬼力赤部落比移向北行、胡人譎詐未可遽信……」</ref>。
 
永楽3年([[1405年]])、オルク・テムル・ハーンは[[ウリヤンハイ三衛]]([[テムゲ・オッチギン]]の末裔)や[[哈密衛]]([[チャガタイ]]の末裔)がモンゴル帝国の皇族の末裔でありながら明朝に服属することを不快に思い、彼等を服属させんと動向を窺っていた<ref>『明太宗実録』永楽三年正月乙巳「韃靼掃胡児与其弟荅剌赤八速台・迭児必失等来帰。掃胡児阿魯台部属也。言、鬼力赤鬥、兀良哈・哈密内属朝廷、遂相猜防、数遣人、南来窺伺。上曰、狡虜情状固亦如、是謹吾辺備虜何能為……」</ref>。そして同年、エンケ・テムルはハミルへの進出を窺うオルク・テムル・ハーンによって毒殺されてしまった。これを受けて、ハミルの隣国モグーリスタン・ハン国のシャムイ・ジャハーンは報復としてオルク・テムルを攻めている<ref>『明太宗実録』永楽三年四月庚辰「遣使以綵幣賜別失八里王沙迷干。時哈密忠順王安克帖木児為鬼力赤毒死、沙迷干率兵討鬼力赤之罪。上聞而嘉之、故賜之仍賜勅令与嗣忠順王脱脱惇睦」</ref>。同年、埽胡児とチャガン・ダルガ(察罕達魯花)が明に降る<ref>羽田・佐藤 1973,p12</ref>。
 
永楽4年([[1406年]])には、オルク・テムル・ハーンらが南下して明朝へ侵攻しようとしていたことが永楽帝に報告されている<ref>『明太宗実録』永楽四年二月丙子「書諭趙王高燧曰、小旗孫成自虜中逸帰見、鬼力赤・阿魯台・也孫台向東南行、其来寇掠辺境亦未可知……」</ref><ref>『明太宗実録』永楽四年九月「朶顔衛来朝韃官都指揮哈児兀歹言、北虜鬼力赤欲率衆南来抄辺……」</ref>。