「イタリア式庭園」の版間の差分
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ほぼ同時に、Mercoglianoは、ヘンリー4世時代の大臣Georges d'Amboise枢機卿が所有していて、Châteaude Gaillonは庭園もデザインを担当。中世の古い城の下のさまざまな階に建てられた庭園は、花や果樹が一部に植えられていた。庭の入り口にあるパーティは、フランスの紋章を花で飾る。茂みは、馬、船、鳥の形をした男性の形に整えられた。それはまた大理石の印象的な噴水で装飾された。<ref>Wenzler, ''Architecture du jardin'' pg. 14</ref>
[[ファイル:Chateau.Bury.png|右|サムネイル|250x250ピクセル| ベリー城]]
1511年から1524年の間に[[ルイ12世 (フランス王)|ルイ12世]]と[[フランソワ1世 (フランス王)|フラン
;フォンテーヌブローの庭園
[[ファイル:Fontainebleau_fontaineDiane.jpg|右|サムネイル|250x250ピクセル| [[フォンテーヌブロー宮殿|フォンテーヌブロー城]]の庭園内にあるダイアナの泉。]]
フランス[[カペー家|岬]]の王の狩猟保護区であった[[フォンテーヌブロー宮殿|フォンテーヌブロー城]]は、1528年から[[フランソワ1世 (フランス王)|フラン
;シュノンソー庭園
[[シュノンソー城]]には2つの独立した庭園があ
[[ファイル:IsraelSilvestreChateauneufStGermainenLaye.jpg|サムネイル|250x250ピクセル| ''St-Germain-en-Laye Vue duChâteauneufde'' : イスラエルのSilvestreによるエッチングは、LeNôtreの変更前のテラスを記録してい
;フランスルネサンス庭園の年代学<ref>According to Yves-Marie Allain and Janine Christiany, ''L'art des jardins in Europe'', pg. 610</ref> [[ファイル:Villandry_Gardens.jpg|右|サムネイル|250x250ピクセル| [[ヴィランドリー城|シャトードヴィランドリー]]の庭園]]
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* Châteaude Blois (1499) - (庭園は19世紀に取壊し。)
* シャトードガイヨン ( 1502〜1550 )
* Bury-en-Blesois城 (1511年- 1520年)
* [[シュノンソー城]] (1515年 - 1589年)、
* [[シャンティイ城]] (1524)
* フォンテーヌブロー城 (1528年 - 1447年)
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* [[チュイルリー宮殿]]と(1564–1593)[[チュイルリー庭園]] (1599)クロード・モレ、デローム、デュペラック
* ヴェルヌイユ城 (1565)
* Châteaud'Anetのニューガーデン(1582)
* Châteaude Fontainebleau (1594-1609)クロード・モレによる新しい庭園
* パリの[[リュクサンブール公園]] (1612–1630)
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;フランスのルネッサンス庭園の現代版
[[ファイル:Ambleville1.JPG|右|サムネイル|250x250ピクセル|
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== 参考文献 ==
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