「小笠原忠総」の版間の差分

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| 霊名 =
| 墓所 = [[東京都]][[台東区]][[松が谷 (台東区)|松が谷]]の[[海禅寺]]
| 官位 = [[従五位|従五位下]][[伊予国#武家官位としての伊予守|伊予守]]、[[従四位|従四位下]][[侍従]]、[[京職|左京大夫]]、[[兵部省|兵部大輔]]
| 幕府 = [[江戸幕府]]
| 主君 = [[徳川家重]]、[[徳川家治|家治]]、[[徳川家斉|家斉]]
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| 氏族 = [[小笠原氏#信濃小笠原氏|府中小笠原氏]]
| 父母 = [[小笠原忠基]]、[[木村重房]]娘常
| 兄弟 = [[小笠原忠貞|忠貞]]、[[小笠原長吉|長吉]]、[[小笠原長逵|長逵]]、[[小笠原久吉|久吉]]、[[小笠原長良|長良]]、'''忠総'''、<br/>[[小笠原長周|長周]]、利代姫、幾姫、[[幸姫]]、多賀姫
| 妻 = '''[[浅野吉長]]養女'''能姫'''、魏
| 子 = 富姫、'''''[[小笠原忠苗|忠苗]]'''''
| 特記事項 =
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== 生涯 ==
享保12年(1727年)8月22日、第3代[[]]主・[[小笠原忠基]]の6男として[[豊前国]][[企救郡]][[小倉北区#歴史|小倉]]([[小倉城]]?)で生まれる。はじめ[[阿波国|阿波]][[徳島藩]]主・[[蜂須賀宗鎮]]の[[養子]]になる予定であったが、[[寛保]]元年([[1741年]])に長兄[[小笠原忠貞|忠貞]]が死去したため、養子縁組を解消して父から世子に指名された。同年12月、従五位下、[[伊予守]]に叙任される。[[宝暦]]2年([[1752年]])、父の死去により家督を継いだ。
 
藩政においては、[[犬甘知寛]]([[犬甘氏]])を家老として登用し、藩財政再建を目指す。そして倹約令の強化、身分制の強化、税制の強化、借上などを行なう。寛政2年(1790年)11月8日に死去した。享年64。
 
跡を養子の[[小笠原忠苗|忠苗]]が継いだ。
 
== 系譜 ==
*父:[[小笠原忠基]](1682-1752) 1752年)
*母:常 - 涼心院、[[木村重房]]娘
*正室:能姫 - 養寿院、[[浅野吉長]]の養女、[[浅野長賢 (広島新田藩主)|浅野長賢]]の娘
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**女子:富姫 - [[小笠原忠苗]]の養女、[[小笠原忠固]]正室
*養子
**男子:[[小笠原忠苗]](1746-1808) 1808年) - [[小笠原長逵]]の三男
 
{{小笠原氏宗家歴代当主||24代|1752年 - 1790年}}
{{小倉藩主|小笠原|4代|1752年 - 1790年}}
 
{{DEFAULTSORT:おかさわら たたふさ}}