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[[劉備の入蜀]]に随行し、[[益州]]平定後は[[綿竹市|綿竹]]・[[成都市|成都]]の[[県令]]・[[越巂郡|越巂]][[太守]]を歴任した。
 
並外れた才能の持ち主で、軍略を論じることを好み、その才能を[[諸葛亮]]に高く評価された。ただ劉備は彼を信用せず、[[白帝城]]で臨終を迎えた際にも「馬謖は口先だけの男であるから、くれぐれも重要な仕事を任せてはならない」と諸葛亮に厳しく念を押したという。しかしながら「才器、人に過ぎ、好みて軍計を論ず」と、俊英な馬謖の才能を愛した諸葛亮は<ref>陳舜臣監修『三国志ハンドブック』1998年、186頁。</ref> 、劉備の死後に彼を参軍([[幕僚]])に任命し、昼夜親しく語り合った。
 
[[建興 (蜀)|建興]]2年([[224年]])春、[[建寧郡]]の豪族の[[雍闓]]らは[[南蛮|西南夷]]の有力者の[[孟獲]]を誘って謀反を起こした。馬謖は「城を攻めるは下策、心を攻めるが上策」と諸葛亮に助言したため、これが'''七縦七擒'''などの作戦に繋がり、南征の成功と蜀の後背地の安定に寄与することになった。
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『[[晋書]]』[[陳寿]]伝によると、『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』の撰者である陳寿の父は馬謖の参軍であり、馬謖に連座して髠刑([[スキンヘッド|コン刑]]、剃髪の刑で[[宮刑]]に次ぐ重罰だという)に処されたという。
 
小説『[[三国志演義]]』では、馬謖は[[司馬懿]]が[[涼州]]への赴任を志願し蜀への対策を行なっているという話を聞き、司馬懿が謀反を企んでいるという噂を流すよう諸葛亮に進言する。噂を信じた曹叡らが司馬懿を疑ったため、司馬懿は役職から外さた。これを聞いた諸葛亮は[[出師表]]を上奏し、北伐を行なうことになる。
 
== 死についての異説 ==
通説では馬謖の死は処刑によるものと見なされているが、以下の異説も存在する。
 
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== 脚注 ==
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{{三国志立伝人物}}
 
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[[Category:三国志の登場人物]]