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'''溝尻 房蔵'''(みぞじり ふさぞう、[[1883年]](明治16年)9月1日 - [[1969年]](昭和44年)8月18日)は、[[京都府]][[竹野郡 (京都府)|竹野郡]][[浜詰村]][[磯 (京丹後市)|磯]](現在の[[京都府]][[京丹後市]][[網野町]])出身の光学研究者。世界初とされる[[太陽炉]]を発明した<ref name=
== 生涯 ==
=== 磯村に育つ ===
[[File:磯 静神社展望台から.jpg|thumb|溝尻房蔵の生まれ育った磯地区]]
溝尻房蔵は、1883年(明治16年)9月1日、船大工の溝尻満吉の三男として、[[京都府]][[竹野郡 (京都府)|竹野郡]][[浜詰村]][[磯 (京丹後市)|磯]](現在の京丹後市網野町磯)に生まれた<ref name=
困窮する家庭事情から、溝尻が高等教育を受けることは不可能と思われたが、当時の[[磯 (京丹後市)#磯小学校|磯小学校]]で学務委員をしていた井元勇次郎はその才を惜しみ、磯区の集会にはかって、学校貸付金制度を設立<ref name=
その後は東京[[築地]]の水産缶詰機械製造所に住み込み、家事手伝いをしながら、[[東京理科大学|東京物理学校]]の夜間部に通った<ref name=
=== 研究者への道 ===
母の没後、溝尻は約1年間郷里に留まり、宮津水産講習所で[[兵站]]品の缶詰製造の仕事に就いた<ref name=
1909年(明治42年)に東京物理学校師範化科を卒業<ref name=
[[1919年]](大正8年)、海軍を退官すると、[[日本光機工業|日本光機工業株式会社]]に入社し、技師、第三工場長を務めながら、海軍の委託した[[ガラス]]の研究に没頭する<ref name=
[[1927年]](昭和2年)、[[後藤新平]]の後押しを受けて、自ら「フレキシブルミラー」と名付けた可撓牲[[反射鏡]]による太陽熱の集熱装置を試作し<ref>{{Cite journal|和書|author=溝尻房藏 |title=太陽熱に就て |url=https://doi.org/10.2150/jieij1917.11.3_134 |journal=照明学会雑誌 |publisher=照明学会 |year=1927 |volume=11 |issue=3 |pages=134-147 |naid=130003756307 |doi=10.2150/jieij1917.11.3_134 |issn=0019-2341|accessdate=2020-09-14}}</ref>、東京や京都の博覧会場に出展する。これが、世界初の太陽炉であった<ref name=
[[1932年]](昭和17年)に59歳で会社経営を後継者に託した後も、溝尻は社の相談役となり研究を続けたが、1945年(昭和20年)5月に会社自宅ともに空襲を受け、研究設備の一切を失った<ref name=
=== 研究者として ===
[[1947年]](昭和22年)5月、再び上京した溝尻は、[[東京大学]]の構内に溝尻研究所を設立する<ref name="沿革">{{Cite web |url=http://www.mizojiri-opt.co.jp/company/history/ |title=溝尻光学工業所沿革 |publisher =溝尻光学工業所 |accessdate=2020-02-20}}</ref>。翌1948年(昭和23年)には文部省の補助金を受けてフレキシブルミラーを応用した太陽熱補足装置の研究を再開し、[[1953年]]
[[1955年]](昭和30年)10月、72歳の折に、アメリカから招聘を受け、第一回太陽エネルギー世界会議に出席。滞米中に信仰を通じてアメリカ人と親交を深め、[[ロサンゼルス]]の教会で「神の国と太陽エネルギー」と題する講演をおこなった<ref name=
溝尻は[[1969年]](昭和44年)8月18日、東京の自宅において、88歳で世を去った<ref name=
== 人物 ==
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== 参考文献 ==
* 『磯小学校のあゆみ 廃校記念誌』磯小学校廃校記念誌編集委員会、1982年
* 『網野町人物誌 第一集』網野町郷土文化保存会、1973年
== 外部リンク ==
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