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==歴史==
===大日本国粋会===
[[1919年]]{{small|(大正8年)}}10月10日、[[原敬]][[原内閣|内閣]]の[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]・[[床次竹二郎]]([[立憲政友会]])は、全国的な右翼団体を創設するべく、[[政友会]]の[[米田穣]]代議士をまとめ役として博徒等関西壮士の大親分36人を東京に呼び寄せて会合を開いた<ref name=ikemoto>池本淳一、「[https://doi.org/10.5432/jjpehss.13107 嘉納健治の「柔拳興行」と日本ボクシング史におけるその位置づけ]」 『体育学研究』 2014年 59巻 2号 p.529-547, {{doi|10.5432/jjpehss.13107}}, 一般社団法人 日本体育学会</ref>。同年11月、西村伊三郎(伏見・砂子川)の提唱により、関東側は[[河合徳三郎]](河合組)、梅津勘兵衛(上州家)、倉持直吉(住吉一家)、青山広吉(生井一家)、篠信太郎(土支田一家)、榎本政吉(芝・[[壮士]])、[[中安信三郎]]が中心となり、床竹内相を世話役に、在野[[右翼]]の重鎮と見なされていた[[頭山満]]を顧問に迎えて結成された。大日本国粋会は、[[博徒]]や土建業者系の壮士たちによる全国的な[[右翼団体]]であった。超党派的純国家主義思想団体として、皇室中心主義、アジア主義等(『日本社会運動通信附録』国立国会図書館デジタルコレクションコマ番号4/33 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1457693<nowiki/>)や伝統の[[侠客]]道を根本信条として行動することを原則とした。創立当時、総裁は伯爵[[大木遠吉]]、会長は[[村野常右衛門]]、理事長は中安信三郎が務め、会員数60万と称した。
 
[[1921年]]{{small|(大正10年)}}<ref>[[山平重樹]]『義侠ヤクザ伝 藤田卯一郎』[[幻冬舎]]<幻冬舎アウトロー文庫>、2003年、ISBN 4-344-40476-9 のP.50</ref>、河合は大日本国粋会を脱会し、[[立憲民政党]]の後ろ盾のもとに、[[大和民労会]]を結成した。大和民労会の結成式は、[[浅草]]・[[伝法院]]で行われ、約5000人が集まった。大和民労会の中心メンバーは、土建業系博徒の[[関根賢]]、[[高橋組]]高橋金次郎組長、城迫正一であった。それぞれが、浅草、[[吉原 (東京都)|吉原]]、[[向島 (墨田区)|向島]]、[[下谷]]を地盤としていた。