「岡田展和」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
編集の要約なし
12行目:
|利き腕 = 右
|打席 = 右
|守備位置 = [[投手]]
|プロ入り年度 = {{NPBドラフト|1985}}
|ドラフト順位 = ドラフト5位
31行目:
[[近畿大学附属広島高等学校・中学校福山校|近大福山高]]では1年生の時、[[1983年]]秋季中国大会県予選決勝で先発を任され、[[本原正治]]、[[定詰雅彦]]のバッテリーを擁する[[広陵高等学校 (広島県)|広陵高]]を降す。中国大会は決勝で[[高川学園高等学校・中学校|多々良学園]]に敗れるが、翌[[1984年]][[第56回選抜高等学校野球大会|春の選抜]]への出場を決めた。選抜では1回戦で[[岩倉高等学校|岩倉高]]の[[山口重幸]]と投げ合うが敗退<ref>「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年</ref>。岩倉高は同大会で初出場初優勝を成し遂げた。その後はいずれも県予選で敗れ、甲子園には届かなかった。
 
{{by|1985年}}の[[1985年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|プロ野球ドラフト会議]]で[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]から5位指名を受け入団。西武では{{by|1987年}}に初先発を果たすが、なかなか一軍に定着できなかった。しかし{{by|1990年}}には5月から先発陣の一角として起用され、5月27日には[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]の[[野茂英雄]]と投げ合い初勝利を完封で飾る。同年は3勝を挙げるがその後は伸び悩み、{{by|1991年}}オフに[[松原靖]]との交換トレードで[[読売ジャイアンツ]](巨人)に移籍した
 
プロ1年目の{{by|1996年}}からリリーフで一軍初登板を果たし、{{by|1987年}}には初先発を果たすが、なかなか一軍に定着できなかった。しかし、{{by|1990年}}には5月から先発陣の一角として起用され、5月27日には[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]の[[野茂英雄]]と投げ合い初勝利を完封で飾る。同年は3勝を挙げるがその後は伸び悩み、{{by|1991年}}オフに[[松原靖]]との交換トレードで[[読売ジャイアンツ]](巨人)に移籍した。
巨人移籍後はフォームを[[サイドスロー]]に変えるとともに中継ぎに転向。{{by|1994年}}には41試合に登板しリーグ優勝に貢献、同年の古巣・西武との[[1994年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でも第1戦に登板している。その後も140km/h台後半の直球とスライダー・シュートを武器に活躍した。{{by|1999年}}オフに自由契約となり、[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]にテスト入団にて移籍したが、{{by|2001年}}限りで引退した。
 
巨人時代移籍後はフォームを[[サイドスロー]]に変えるとともに中継ぎに転向。{{by|1994年}}には41試合に登板しリーグ優勝に貢献、同年古巣・西武との[[1994年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でも第1戦に登板している。その後も140km/h台後半の直球とスライダー・シュートを武器に活躍した。{{by|1996年}}[[8月7日]]には、[[杉山直樹 (野球)|杉山直輝]]の代走として登場し、サヨナラのホームを踏んでいる。{{by|1999年}}オフに[[自由契約]]となり、[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]にテスト入団にて移籍したが、{{by|2001年}}限りで現役を引退した
 
引退後は北海道[[北広島市]]の[[スポーツDEPO]]に勤務し<ref name="shuube">週刊ベースボール2012年4月16日号 P14</ref>、{{by|2012年}}には[[札幌学生野球連盟]]所属の[[東海大学|東海大学北海道キャンパス]]コーチに就任。
 
== 詳細情報 ==
=== 年度別投手成績 ===
{| {{投手成績|リーグ=日本プロ野球}}
115行目:
 
== 外部リンク ==
* {{NPB|91393862}}
* {{BASEBALLstats |brjpn=okada-001hir}}
 
{{西武ライオンズ1985年ドラフト指名選手}}
 
{{DEFAULTSORT:おかた ひろかす}}
[[Category:日本の野球選手]]