「フォンテーヌブローの勅令」の版間の差分

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== 内容 ==
===序文===
破棄の勅令の序文において、ナントの勅令は次のように記載されている。
{{Cquote|
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}}
<!--すなわち、ナントの勅令は、宗教戦争を脱するための和平的な政治的妥協策であったとされたのである。この条文に従えば、[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]の目的は王国の宗教的統一を達成することにあり、この方針は1598年以来一貫していたことになる。ただし、王は[[1610年]]の死去によりその実現をかなえることが出来なかった。そしてその後連続した国内外の紛争により、彼の後継者たちもまた勅令を破棄する機会を得なかった。フォンテーヌブローの勅令の条文は、フランスに平和が訪れ、過去数年の間に多くの人々がカトリックへ改宗した今こそ、王は王国に平和をもたらすためにナントの勅令を破棄することが可能となり、破棄しなければならないのであると述べている。-->
===内容===
 
[[File:Édit de Fontainebleau. Page 1 - Archives Nationales - AE-II-887.jpg|thumb|フォンテーヌブローの勅令]]
主要な条文の内容は以下のとおりである。
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もちろん、フランス国内のカトリック信者は、熱狂的信心家にとどまらず、王の決定を賞賛した。ルイ14世を讃える賛辞が巻き起こり、[[セヴィニエ侯爵夫人マリー・ド・ラビュタン=シャンタル|セヴィニエ侯爵夫人]]は「いまだかつて、そしていまより後もいかなる王もこれほどすばらしいことはできないでしょう」と述べ、ボシュエはルイ14世を王国の宗教的統一を成し遂げた「[[コンスタンティヌス1世|コンスタンティヌス]]の再来」と呼んだのであった。-->
 
== 影響 ==
多くの新教徒がフランスを脱出して国外へ移住した。[[ブランデンブルク=プロイセン|ブランデンブルク選帝侯国]](後の[[プロイセン王国]])へは数万人が移住し、「[[ポツダム勅令 (1685年)|ポツダム勅令]]」で保護された。18世紀初頭には[[ベルリン]]の人口のうち3分の1はフランス人だったとはよく言われることである。彼らは農業と工業の両面で技術革新をもたらした。養蚕の成功は特筆される。同胞がオランダにもいて、近現代にドイツ経済はオランダのそれと密接に関係した。現代ドイツ史にはユグノーの末裔をたくさん挙げることができる<ref>例えば[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]最後の[[ドイツの首相|閣僚評議会議長(首相)]]だった[[ロタール・デメジエール]]とその従弟で[[ドイツ再統一|東西ドイツ統一]]後に閣僚を務める[[トーマス・デメジエール]]、[[第二次世界大戦]]における[[ドイツ空軍]][[エース・パイロット]]の[[ハンス・ヨアヒム・マルセイユ]]や[[アドルフ・ガーランド]]など</ref>。フランスにとっては勤勉な新教徒が失われたことによる経済的損失は大きかった<ref>プロイセン王[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]によれば、「数州の地方はこのために著しく人口が減少し、今日にいたるまで人々は、ナントの勅令の廃止を後悔している」。新教徒を受け入れた側の誇張もあるだろうが、フランスの産業と資本の蓄積が遅れた一因とは言えるだろう。</ref>。また、ユグノーが多かったフランスの[[時計師]]たちの多くが[[スイス]]へ移住したことで、フランス時計産業が衰退してスイス時計産業が発展する契機となった。