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その性格は慎ましやかで、忠孝を重んじたという。官僚として[[司隷校尉]]・[[大司農]]・[[大鴻臚]]を経て、[[中平]]5年([[188年]])には[[太尉]]まで昇った。当時、賄賂や売官制が横行しており、曹嵩も一億銭にも上る金額を[[霊帝 (漢)|霊帝]]に献上し、宦官に賄賂を贈って、太尉の職についたという。
その後、[[黄巾の乱]]に始まる後漢末の大乱を避ける為に<ref>『三国志』魏書武帝紀注引『世語』によると、少子の[[曹徳]]と妾がいたことになっており、『[[後漢書]]』宦者伝によると、曹操が挙兵した際に資金援助も同行も一切したがらず、子の曹疾と共に琅邪へ避難した。其の為に曹操は家財を処分し挙兵資金を捻出した。</ref>、[[徐州]]東北部の[[
[[黄初]]元年([[220年]])、孫の[[曹丕]](文帝)が[[献帝 (漢)|献帝]]より[[禅譲]]を受けて[[魏 (三国)|魏]]を建国すると、曹嵩は'''太皇帝'''と追尊された。
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* 長男:[[曹操]](魏の[[太祖]]武帝)
* 次男:[[曹彬]] (蘇恭公)
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子については、曹操や共に殺害された曹徳(あるいは曹疾)の他に数名散見されるが、いずれも事蹟に乏しい。『魏書』「樊安公均伝」によると、薊恭公'''曹彬'''、同じく『魏書』「東平霊王徽伝」によると、朗陵哀侯'''曹玉'''の名が見えるが、それぞれ曹操の子である[[曹均]]と[[曹徽]]を養子に迎えていたと記録されるのみである。また、『魏書』「[[夏侯淵]]伝」によると、曹操の弟である'''海陽哀侯'''と諡された人物が確認でき、その娘が[[夏侯衡]](夏侯淵の長
== 『三国志演義』における曹嵩 ==
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