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池田の所属する[[民主自由党 (日本)|民自党]]は大勝したが、選挙後の組閣([[第3次吉田内閣]])において、大蔵大臣のポストだけがなかなか決まらなかった{{Sfn|土生|pp=94-98}}。この年2月1日に[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]の財政顧問の[[ジョゼフ・ドッジ]] (デトロイト銀行頭取)が[[駐日アメリカ合衆国大使|公使]]の資格で来日し、日本の[[インフレ]]収束について強力な政策が要求されると予想され{{Sfn|細川|伊藤|pp=38-43}}、それまでのような蔵相ではとても[[連合国軍最高司令官総司令部|総司令部]]に太刀打ちできそうもないためであった{{Sfn|東京新聞|pp=38-43}}。<!---出典記述通りなので変えないで下さい。--->
 
外交官出身の吉田はマッカーサーとの信頼を築くことに専一で外交は玄人だが{{Sfn|御厨|中村|pp=92-111}}、財政経済は素人でほとんど無関心だったため<ref>[http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20150607/dms1506070830002-n1.htm 安倍総理が“第三の矢"を放てば「経済宰相」への道が開ける 塩田潮さん (1/3ページ)]</ref>、信頼に足る専門家を見つけ出して任せるしかなかった{{Sfn|細川|伊藤|pp=38-43}}。吉田は[[第2次吉田内閣|前内閣]]で、[[池田成彬]]に凝っ擬えて[[泉山三六]]を蔵相に起用し大失敗した苦い経験があった([[国会キス事件]]){{Sfn|コーエン|大前|pp=314-331}}。吉田は[[宮島清次郎]]に人選を依頼したが、宮島が挙げる[[向井忠晴]]ら候補者はみな[[公職追放]]の憂き目に遭っていた{{Sfn|証言上|pp=52-60}}。
 
宮島から[[桜田武]]経由で話を聞いた永野重雄は、安本時代の次官仲間だった池田を推薦した{{sfn|人間昭和史|pp=71-82}}<ref>{{Cite book|和書 |author=[[三鬼陽之助]] |year=1962 |title=財界首脳部 日本経済を動かすもの |publisher=[[文藝春秋新社]] |isbn= |pages=7-59}}</ref>。宮島が池田にテストを行ったが、宮島の厳しい質問は、池田の最も得意とする領域で、スラスラ答えたといわれる{{sfn|人間昭和史|pp=71-82}}。池田は記憶力が抜群で、数字を丸暗記できる特技があった。宮島は、当時は財界でもその名を知る者はほとんどいなかった{{Sfn|細川|伊藤|1985|pp=38-43}}池田を吉田に推薦した{{Sfn|林|pp=222-225}}{{Sfn|桜田|鹿内|pp=33-39}}。こうして池田は当選1回で[[第3次吉田内閣]]の大蔵大臣に抜擢された(就任日は1949年2月16日)。この人事には[[林譲治 (政治家)|林譲治]]や[[大野伴睦]]ら[[党人派]]が反対したが{{Sfn|堺屋|pp=153-158}}、最終的には吉田に頼まれた[[日本自由党 (1945-1948)|自由党]][[幹事長]]の大野が反対派をまとめた{{Sfn|大野|pp=130-135}}。池田は吉田の全権委任の形で経済を任されており、その後3度の内閣改造を経て解散されるまで蔵相に留任した他、[[第3次吉田内閣]]で[[経済産業大臣|通商産業大臣]]を、[[第4次吉田内閣]]では[[内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)#歴代大臣|経済審議庁長官]]を兼務した。