「村松友視」の版間の差分

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父・友吾は中央公論社を退社した後、妻とともに[[上海]]に移住し「上海毎日新聞」の記者となっていたが、友視の生まれる前に腸チフスで他界。祖父梢風は若い未亡人の将来を案じて再婚を薦め、生まれた友視を梢風自身の五男として入籍する{{#tag:ref|そのため、戸籍上は上記の父方のおじたちと兄弟である。|group="注"}}{{#tag:ref|その事情を知らない[[水上勉]]などは担当編集者だった村松について「彼は梢風の妾の子だ。かわいそうに」と同情していたという<ref>[[嵐山光三郎]]『昭和出版残侠伝』より</ref>。|group="注"}}。だが梢風は戦後疎開先から戻ると鎌倉で愛人と暮らし、清水で祖母(梢風の妻)一人に育てられる<ref name="sankei021">「[http://www.sankei.com/column/news/160816/clm1608160004-n1.html 【話の肖像画】作家・村松友視(2)父の早世、祖父母に育てられ (1/2)]」『産経ニュース』2016年8月16日付</ref>。少年時代から熱狂的な[[プロレス]]ファンとして育つ。[[静岡県立静岡高等学校]]を経て慶應義塾大学文学部哲学科を卒業。
 
大学時代はテレビ局でアルバイトをしていたため、そのままテレビ局に入社するつもりでいたが、入社試験に失敗。その後、何社ものマスコミを受験するが合格せず、祖父、父の縁がある[[中央公論社]]の社長[[嶋中鵬二]]に依頼して、既に締め切っていた中央公論社の試験を受けて入社。入社後は『[[小説中央公論]]』『婦人公論』の編集者として働く。『婦人公論』時代には[[ベトナム戦争]]下の[[サイゴン]]を取材した他、編集者として[[伊丹十三]]のサロンに出入りしていた。また叔父[[村松暎]]の教え子で『[[婦人公論]]』編集者時代に伊丹の担当者だった[[草森紳一]]と知り合い、彼の薦めで雑誌「デザイン」等にコラムを執筆した。しかし同人雑誌や文芸クラブなどに所属したことも一切なかったので、作家になろうとはまだ思っておらず、仕事を通じてかろうじて文学と縁をもったという印象だったという<ref name="sankei031">「[http://www.sankei.com/life/news/160817/lif1608170006-n1.html 【話の肖像画】作家・村松友視(3)唐十郎を発掘した編集者時代 (1/3)]」『産経ニュース』2016年8月17日付</ref>。
 
1969年に文芸誌『[[海 (雑誌)|海]]』創刊準備のため、新雑誌研究部というセクションに異動。創刊後はそのまま編集部員となった。途中入社して『海』に参加した[[安原顯]]と同僚として交際した。『海』時代は「既成の作家の中にもすごい人はいるけれど、文壇外の作家を探し出すのが僕の本当の役目だという強い意識」があったという村松は、海外文学は安原にまかせ、当時クローズアップされていた「[[状況劇場]]」の主宰者[[唐十郎]]の戯曲を編集長の反対を押し切って掲載<ref name="sankei032">「[http://www.sankei.com/life/news/160817/lif1608170006-n2.html 【話の肖像画】作家・村松友視(3)唐十郎を発掘した編集者時代 (2/3)]」『産経ニュース』2016年8月17日付</ref><ref>村松著の『ヤスケンの海』によれば、編集長との対立はしばしばで異動願いを出したこともある。そのため中央公論社は万が一のために、村松の穴埋め要員を探し、最終的に採用したのが先述の安原だった。</ref>するなど日本の「既成文壇外」の作家を発掘し、[[江藤淳]]らに高く評価されるなど名編集者ぶりを発揮した<ref name="sankei033">「[http://www.sankei.com/life/news/160817/lif1608170006-n3.html 【話の肖像画】作家・村松友視(3)唐十郎を発掘した編集者時代 (3/3)]」『産経ニュース』2016年8月17日付</ref>。[[武田泰淳]]『富士』、[[後藤明生]]『夢かたり』、[[田中小実昌]]『[[ポロポロ]]』、[[色川武大]]『生家へ』、[[武田百合子]]『[[富士日記]]』{{#tag:ref|[[塙嘉彦]]が『海』4代目編集長となると編集部一同で、未亡人となった武田百合子邸を月1度訪問するのが恒例となった。また色川武大と二人で「武田百合子に小説を書かせる会」を結成した。|group="注"}}などを担当している。また[[野坂昭如]]や[[吉行淳之介]]の担当編集者でもあった。