「武家諸法度」の版間の差分

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15か条じゃなくて16だと習ったんですけど 違ったらごめんなさい 初心者なんで許してください
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その後、将軍の交代と共に改訂が続けられ、[[徳川家光]]が[[参勤交代]]の義務化や[[大船建造の禁]]に関する条文を加えた[[1635年]]の'''[[寛永]]令'''、[[徳川綱吉]]の[[殉死]]の禁止や[[末期養子]]の緩和などを定めた[[1683年]]の'''[[天和]]令'''、最後の改訂となる[[徳川吉宗]]の[[1717年]]の'''[[享保]]令'''(実質は天和令)が知られる。
 
法度で定められ、大名が守るべきとされたことは徳川家光の参勤交代、徳川家綱の[[キリスト教禁止令|キリスト教禁止]]の明文化、徳川綱吉の[[殉死の禁止]]などを除いてはそれまで定められた武家法の[[北条泰時]]の[[御成敗式目]]、[[足利尊氏]]の[[建武式目]]とあまり大差はなかったが、違反した大名は譜代大名だろうが外様大名だろうが厳しく罰したという点に意義があった。徳川秀忠の代に秀忠の父・[[徳川家康]]の側近であった[[本多正信]]の息子である[[本多正純]]が城を無断で改築して取り潰されたことが良い例である。
 
== 各法令 ==
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* 発布年:天和3年([[1683年]])
* 発布者:[[徳川綱吉]]
* 条数:16:15ヶ条
 
[[文治政治]]の路線を基に大きな改編がなされた。[[殉死]]の禁止や[[末期養子]]の禁緩和の明文化のほか、[[諸士法度]]との統合がなされた。条文が減っているが、これは統合されたものが多く、前代のものを否定したわけではない。