「日本美術院」の版間の差分

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*[[1905年]](明治38年)に茨城県・[[五浦海岸]]へ別荘([[六角堂]])を建設した岡倉は、翌[[1906年]](明治39年)に第一部(絵画)をそこへ移転させる。しかし当時の岡倉は[[フェノロサ]]の紹介で[[ボストン美術館]]中国・日本美術部に入っており、五浦と[[ボストン]]を往復するうちに同院への興味を失っていく。1906年9月6日に規則を改正し、第1部(絵画)を東京に、第2部(彫刻)を奈良に置き、12月ころ第1部は茨城県五浦の研究所に移り、大観・春草・観山・木村武山は天心にしたがって同地に移住した。
*[[1910年]](明治43年)、岡倉が[[ボストン美術館]]中国・日本美術部長として渡米したことにより、同院は事実上の解散状態となる。
*[[1914年]]([[大正]]3年)、[[日展|文展]](文部省美術展覧会)に不満を持つ大観や観山らは、前年に岡倉が歿したことを契機にその意志を引き継ぐ動きを見せ、9月2日開院式をおこない、'''日本美術院'''を再興する。場所は谷中三崎坂南町52番地(現所在地)<ref>{{Cite book|和書|author=石井柏亭|year=1942|title=日本絵画三代志|publisher=創元選書|pages=P.176}}</ref>。1946年9月2日開院式、同人は今村紫紅・横山大観・安田靫彦・小杉未醒・下村観山・木村武山ら。
*[[1935年]]([[昭和]]10年)5月28日、文相[[松田源治]]が美術界の挙国一致体制をととのえるために帝国美術院を改組すると発表した。5月31日、帝国美術院規定を廃し、帝国美術院官制を制定した(勅令)。6月1日、栖鳳・大観・藤島・安井らを会員に任命し、美術界は改組をめぐって紛糾し、とりわけ旧帝展系作家に不満がおこった。
*現在、日本を代表する日本画の美術団体としてその活動を継続している。