「文禄・慶長の役」の版間の差分

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== 日本軍の補給 ==
文禄・慶長の役において、日本は初動において16万人に対する莫大な輸送量に対する補給を見事になしとげたが、[[黄海道]]を経て海路から北京を攻略する計画は制海権を得られずに補給線の確保ができなかったことから断念している<ref>海幹校戦略研究 2013年12月 P129</ref>また、朝鮮半島は陸路、海路ともに輸送経路が整備されておらず、補給活動で損耗が伴うような状態であった<ref>文禄・慶長の役(壬辰倭乱)開戦初期における. 朝鮮側の軍糧調達とその輸送. 六反田 豊</ref>
 
朝鮮半島における補給線については、寸断されずに継続していたとされるが<ref>『[[歴史群像]]』2010年4月号 158頁〜167頁「朝鮮出兵渡海作戦」学研パブリッシング</ref>、近年の韓国の歴史学会からは「李舜臣が日本軍の補給線を寸断した」という主張が行われている(例・日韓歴史共同研究報告書(第1期)・鄭求福発表論文『壬辰倭乱の歴史的意味』「李舜臣による海戦の勝利によって海路を通じた軍糧の輸送も遮断された。」)
 
日本軍の補給路は、肥前名護屋から海路壱岐を経て対馬厳原に到り、対馬北端に位置する大浦などから釜山に着岸して荷を下ろし、その後は陸上を漢城に向かうというものであった。この補給路を朝鮮水軍が寸断するには、釜山の港を継続的に海上封鎖するか、釜山そのものを占領奪還するしか方法はなかった。しかし、実際のところ李舜臣が釜山の海上封鎖を行ったことはなく、釜山前洋に現れること自体殆ど無かった。閑山島海戦までの李舜臣の活動域は加徳島より西方の海域であり、釜山近くに現れることは殆ど無かった。一度だけ釜山に現れたのが天正20年8月29日(明暦9月1日)の[[釜山浦海戦]]であった。李舜臣は釜山と日本本土の海上補給路を分断する必要を痛感しており<ref>『[[歴史群像]]』2010年4月号 166頁「朝鮮出兵渡海作戦」学研パブリッシング</ref><ref>"舜臣謂諸將曰、「釜山、賊之根本也。進而覆之、賊必失據。」遂進至釜山・・" 李忠武公全書 巻之十三 附録五 『宣廟中興志』</ref>、朝鮮水軍の総力をあげて釜山港に強硬突入した。しかし、李舜臣の釜山の占領奪還作戦は失敗し、日本軍の補給路を寸断することはなく退却した<ref>『[[歴史群像]]』2010年4月号 166頁「朝鮮出兵渡海作戦」学研パブリッシング</ref><ref>"李舜臣等攻釜山賊屯、不克。"『宣祖修正実録』(宣祖二十五年八月戊子条)</ref>。たった一日の数時間の出来事であり継続性が無く、この後、李舜臣が釜山の前洋に現れることも二度と無く、日本軍の補給路は堅持され安泰であった<ref>『[[歴史群像]]』2010年4月号 166頁「朝鮮出兵渡海作戦」学研パブリッシング</ref>
閑山島海戦までの李舜臣の活動域は加徳島より西方の海域であり、釜山近くに現れることは殆ど無かった。一度だけ釜山に現れたのが天正20年8月29日(明暦9月1日)の[[釜山浦海戦]]であった。李舜臣は釜山と日本本土の海上補給路を分断する必要を痛感しており
<ref>『[[歴史群像]]』2010年4月号 166頁「朝鮮出兵渡海作戦」学研パブリッシング</ref>
<ref>"舜臣謂諸將曰、「釜山、賊之根本也。進而覆之、賊必失據。」遂進至釜山・・" 李忠武公全書 巻之十三 附録五 『宣廟中興志』</ref>、朝鮮水軍の総力をあげて釜山港に強硬突入した。しかし、李舜臣の釜山の占領奪還作戦は失敗し、日本軍の補給路を寸断することはなく退却した<ref>『[[歴史群像]]』2010年4月号 166頁「朝鮮出兵渡海作戦」学研パブリッシング</ref><ref>"李舜臣等攻釜山賊屯、不克。"『宣祖修正実録』(宣祖二十五年八月戊子条)</ref>。たった一日の数時間の出来事であり継続性が無く、この後、李舜臣が釜山の前洋に現れることも二度と無く、日本軍の補給路は堅持され安泰であった<ref>『[[歴史群像]]』2010年4月号 166頁「朝鮮出兵渡海作戦」学研パブリッシング</ref>。
 
日本軍の補給の状況を示す資料も多数存在する。
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『(文禄二年)三月三日付・漢城在陣諸将連署状』
日本戦史. 朝鮮役 (文書・補伝) 文書第100号
</ref>
 
文禄2年4月、日本軍は漢城を引き払い、朝鮮南部に再布陣する。ルイス・フロイスの『日本史』には、朝鮮南部の沿海地域に兵糧・弾薬が海路輸送され豊富に備蓄されていたことが書かれている<ref>遊撃とのあいだで上記のような協定がなされると、ほどなく日本軍は朝鮮の都、ならびに他の幾つかの城塞をシナ人に明け渡し、関白から海路輸送されて来た豊富な食料と弾薬がある海辺地帯に退いた。
<ref>遊撃とのあいだで上記のような協定がなされると、ほどなく日本軍は朝鮮の都、ならびに他の幾つかの城塞をシナ人に明け渡し、関白から海路輸送されて来た豊富な食料と弾薬がある海辺地帯に退いた。
完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇II P270
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南部への再布陣の後、補給を充足させた日本軍は、文禄2年6月、再攻勢を開始し、29日、朝鮮側最大の反抗拠点と目された晋州城を攻略した。この晋州城攻略作戦は文禄の役が始まって以来最大の作戦であり、9万を超える軍勢が晋州城とその周辺に投入されている。
 
晋州城の攻略後、ただちに日本軍は慶尚道南部の沿海部に、現在倭城と呼ばれる多数の城郭群を構築し、長期の駐留体制を整えた。ルイス・フロイスの『日本史』によれば、これらの城郭には、兵糧・弾薬が海路輸送され豊富に備蓄されており、しかもそれは2年以上持ち堪えるほど莫大な量に達していた<ref>それらの城塞をできるかぎり堅固なものにしようと考え、日本で行うのと同様に、切断しない石を用い、壁も砦も白く漆喰を塗り、天守と呼ぶ高い塔を設け、一城ずつに丹誠を籠め、互いにその出来栄えを競い合った。関白から任命された三名の武将によって食糧と弾薬 ――それらは実に豊富で、一五九五年の九月まで十分持ち堪えることができるほどの量があり、彼らはその分配のために関白から任命されていた―― が分配され終ると、それらの城塞には・・・
それらの城塞をできるかぎり堅固なものにしようと考え、日本で行うのと同様に、切断しない石を用い、壁も砦も白く漆喰を塗り、天守と呼ぶ高い塔を設け、一城ずつに丹誠を籠め、互いにその出来栄えを競い合った。関白から任命された三名の武将によって食糧と弾薬 ――それらは実に豊富で、一五九五年の九月まで十分持ち堪えることができるほどの量があり、彼らはその分配のために関白から任命されていた―― が分配され終ると、それらの城塞には・・・
完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇II P276
</ref>。また、この時期、上杉景勝、伊達政宗、佐竹義宣といった増援軍が続々と、海路、日本から釜山へと渡海している。
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また、この時期、上杉景勝、伊達政宗、佐竹義宣といった増援軍が続々と、海路、日本から釜山へと渡海している。
 
文禄3年5月24日に豊臣秀吉が発した朱印状には、釜山・加徳島・東莱・竹島(金海)等の倭城に莫大な量の兵糧が備蓄されており、これらが古米化しないように、新しい兵糧米との入れ替えを指示する内容が書かれている<ref>