「鈴木三郎助」の版間の差分

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== 来歴・人物 ==
=== 生い立ち ===
[[1868年]][[1月21日]]、[[相模国]][[三浦郡]]堀内村(現在の[[神奈川県]]三浦郡[[葉山町]])の商家、父・三郎助(初代)、母・なか、の長男として生まれる。幼名を泰助といい、妹・こう、弟・[[鈴木忠治|忠治]]がいる。初代三郎助はもともと忠七といい、公郷村(現・[[横須賀市]])の豪商「滝の崎」に奉公に出て手腕を認められ、[[慶応]]2年([[1866年]])に妻帯・独立して「滝屋」を称していた。しかし[[明治]]188年([[18851875年]])に[[腸チフス]]により35歳で他界したため、泰助はわずか9歳で家督を継ぐことになった。
 
泰助は11歳で尋常小学校を出て[[高座郡]]羽鳥村(現・[[藤沢市]])の[[耕余塾]]に預けられたが、明治13年([[1880年]])にこれをやめて[[浦賀町]](現・[[横須賀市]])の米穀商加藤小兵衛商店で住み込みの見習いとなり、明治17年([[1884年]])18歳で自家へ戻って2代目三郎助を襲名する。ついで明治20年([[1887年]])4月8日に、母が選んだ芦名村(現・[[横須賀市]])の呉服商辻井家の次女テルを妻に迎える(のちにテルの妹を弟・忠治の嫁として迎える)<ref name=shashi>[https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/information/pdf/jitsugyouka/jitsugyouka_biographies.pdf コラム 鈴木家の女たち]社史と伝記にみる日本の実業家、神奈川県立図書館、p87</ref>。三郎助の商売は当初は順調であったが、この頃には資金繰りに躓き、それを埋めるために米相場に手を染めていた。