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『'''判断力批判'''』(はんだんりょくひはん、
同時代の哲学や芸術理論に影響を与えただけでなく、[[美学]]、[[目的論]]、[[自然哲学]]においては現代も読まれる古典的大著である。また第1版の序論、通称第1序論は判断力批判だけでなく、カントの批判哲学の展開全体を考える上で重要な書であり、[[エルンスト・カッシーラー|カッシーラー]]他の哲学者からも注目される。▼
▲[[美学]]、[[目的論]]、[[自然哲学]]においては現代も読まれる古典的大著である。また第1版の序論、通称第1序論は判断力批判だけでなく、カントの批判哲学の展開全体を考える上で重要な書であり、[[エルンスト・カッシーラー|カッシーラー]]他の哲学者からも注目される。
==成立事情==
当初は
==概論==<!-- この段落は[[趣味判断]]を統合したものです。 -->
本書の主要概念である「趣味判断」(または「美的判断」)とは、[[人間]]が物事の[[美]][[醜]]を判断する際、その判断の基準は個人の[[趣味]]({{Lang-de|Geschmack}} ; {{Lang-en|taste}})であるということを意味する。例えば「このバラは美しい」と判断する場合には、個人の感性、[[表象]]から行われたと解釈される。ここで行われる判断とは、対象の性質を認識する事によって行われる判断ではないという考え方である。そしてこの趣味判断で美醜を判断する際には、快苦を基準として判断されるという事であり、ある物を美しいものと[[知覚]]したならばそれは自身にとって[[快楽]]をもたらす事となるものであり趣味であるという立場となる。逆に醜いと知覚したものならば、それは自身に[[苦痛]]をもたらす事となるものになるというわけである。ここでの知覚は人間にとって最も単純な事柄でもあるというわけであり、趣味判断というのはこのような単純な形で行われていると位置付けられる。
純粋な趣味判断は、感覚様式における純粋な形式を把握する。<!--客観的合目的性である-->善とは異なり、<!--形式的合目的性である-->美は概念および関心<!--有用性-->をもたない愉悦の対象である。美の判断においては想像力と[[悟性]]とは一致する。これに対し[[崇高]]においては[[想像力]]と理性との間には矛盾がある。崇高美は、それとの比較において一切が小さいところのものであり、感性の一切の基準を超える純粋理性そのものにおける愉悦である。
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* [http://gutenberg.spiegel.de/?id=5&xid=1370&kapitel=1#gb_found Kritik der Urteilskraft(原文)] - [http://gutenberg.spiegel.de/index.php Projekt Gutenberg-DE]
* [http://wikisource.org/wiki/Kritik_der_Urteilskraft Kritik der Urteilskraft] - Wikisource
* [http://artscape.jp/artword/index.php/%E8%B6%A3%E5%91%B3 趣味 | 現代美術用語辞典ver.2.0]
* [https://gair.media.gunma-u.ac.jp/dspace/bitstream/10087/733/1/areh041045.pdf 趣味判断と共感と模倣]
{{SEP|aesthetic-judgment|Aesthetic Judgment|美的判断}}
{{SEP|kant-aesthetics|Kant’s Aesthetics and Teleology|カントの美学と目的論}}
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