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陝西省[[関中]]の出身。[[1057年]]に38歳で[[進士]]に合格して、[[河北]]・[[陝西]]・[[甘粛]]などの地方官を歴任し、[[1069年]]50歳の冬に朝廷に召されたが、[[王安石]]の新法に反対し、翌年病気を理由に帰郷、読書と思索に没頭した。[[1077年]]にも朝廷に召されたが志を得ず、その年の冬に辞職し、帰郷の途次に亡くなった。
 
「天地のために心を立て、生民のために道を立て、去聖のために絶学を継ぎ、万世のために太平を開く」という語で察せられるように、豪傑の性質を持つ。若い頃は兵法を好み、政治に情熱を燃やしたが、[[仲淹]]に諭され『[[中庸]]』を授けられたのをきっかけに儒者に転じた。仏教・老荘の教えに一時心酔したが、[[1056年]]に国都・[[開封]]で甥にあたる程氏兄弟([[程顥]]・[[程頤]])と出会い、儒者としての自信を確立したという。それまで虎の皮に座って『[[経|易]]』の講義をしていたのが、二程氏の『易』論を聴いて感服し、潔く虎皮を撤去して、門人たちを二程氏に師事させたという逸話がある。
 
 
== 思想 ==