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==来歴・人物==
[[兵庫県立社高等学校|社高校]]は県大会でも3回戦レベルの高校であったが、才能が突然開花。1年次の{{by|1976年}}から[[遊撃手]]であったが、強肩で遠投をさせれば130mを投げ、この時グラウンドにいた[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]のスカウトが仰天して「'''[[カラス]]の中に[[ハクチョウ|スワン]]がいる'''」と言ったほどであった<ref>三塁ベースコーチが野球を変える、[[澤宮優]]、[[河出書房新社]]、2018年、ISBN 430941656X、p173</ref>。
[[兵庫県立社高等学校|社高校]]は県大会でも3回戦レベルの高校であったが、才能が突然開花。1年次の{{by|1976年}}から[[遊撃手]]であったが、強肩で遠投をさせれば130mを投げ、この時グラウンドにいた[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]のスカウトが仰天して「'''[[カラス]]の中に[[ハクチョウ|スワン]]がいる'''」と言ったほどであった<ref>三塁ベースコーチが野球を変える、[[澤宮優]]、[[河出書房新社]]、2018年、ISBN 430941656X、p173</ref>。[[1978年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1978年のドラフト]]2位で近鉄に入団。3年目の{{by|1981年}}には一軍に定着し、遊撃手として13試合に先発出場。57試合に出場して打率.316をマークしたが、[[9月28日]]の[[福岡ソフトバンクホークス|南海]]戦([[藤井寺球場|藤井寺]])では走者一塁で一・二塁間を破る安打で出塁し、一塁走者が三塁を狙う中、[[右翼手]]が三塁へ送球する間に森脇は二塁を陥れた。その後の後続打者の安打で森脇は生還しているため、森脇の積極的な走塁が生きた<ref>澤宮、p174</ref>。[[大石大二郎]]との二遊間コンビは「もう10年間は安泰」と首脳陣を喜ばせ、特に「練習だけは人に負けたくない」と練習量は若手でもトップクラスで、連日居残り特打を続けていた。高校時代からつけ始めていた野球日記を入団後も書き続け、すでに7冊目に達し、夜は[[テッド・ウィリアムズ]]の「バッティングの科学」に読み更けるなど研究熱心さも人一倍であった。女性ファンからのファンレターの数は[[梨田昌孝]]と双璧で、[[ニックネーム]]は「第二の梨田」であった<ref>澤宮、p174</ref>。[[仰木彬]]コーチは森脇の打球への反応、軽快なフットワーク、送球の速さを見て「守備はリーグで一級品」とまで折り紙をつけ、{{by|1982年}}に就任した[[関口清治]]監督は「日本一のショートになれる器」と太鼓判を押した<ref>澤宮、p174</ref>。同年の春季キャンプの紅白戦では課題の打撃でも力を付け、左右に打ち分ける技術も習得し、紅白戦の打率はチームトップになっていた。実戦形式のシート打撃では3打数3安打、左翼席への本塁打、右中間への二塁打、中前安打とあわや[[サイクルヒット]]という活躍を見せた<ref>澤宮、p175</ref>。開幕から9番・遊撃手に抜擢されるが、打撃面で伸びず夏場には[[石渡茂]]に定位置を譲るも、51試合に先発を果たす。シーズン中の[[6月23日]]に突然[[肩|右肩]]の炎症と[[足|右太腿]][[肉離れ]]を起こし、二軍落ちになってしまう。前年[[9月]]から肩の痛みがあったが、レギュラーの座を手放したくないために黙々と痛みに耐えながらプレーを続けたが、右肩は少し動かすだけでも痛むなど体は悲鳴を上げた。練習も満足にできる体ではなくなり、リハビリのためにプールのビート板でばた足をして下半身を強化するしかなかった<ref>澤宮、p175</ref>。{{by|1983年}}には見事復活したが、[[6月19日]]南海戦([[大阪スタヂアム|大阪]])で併殺のため二塁のベースカバーに入った瞬間に滑り込んだ走者の[[ジム・ライトル]]とぶつかって[[膝]]の[[靭帯]]を断裂。その後はなんとか回復したが<ref>澤宮、p176</ref>、[[谷真一]]の入団もあって出場機会が減少し、{{by|1984年}}に[[加藤秀司|加藤英司]]・[[大原徹也]]との2対2の交換トレードで[[福井保夫]]と共に[[広島東洋カープ]]へ移籍。近鉄時代に痛めた膝が治りきっておらず、{{by|1986年}}の[[日南市天福球場|日南]]キャンプ中の紅白戦で[[腰]]を骨折。今度は重傷で再びベッドに寝たきりで1ヶ月半の入院生活を余儀なくされたが、入院中の森脇のもとにある若い女性から手紙が届く。女性は病気で右手が急に不自由になって悲観した心境が綴られており、森脇は返事を書いた。数日後に女性の母親からお礼の手紙が届くが、実は女性はこの時[[自殺]]を考えており、森脇の手紙で思い止まったのであった。森脇も女性に励まされてリハビリに耐え、まずは歩くことから始まり、[[4月]]になってようやく[[ジョギング]]が医師から許された<ref>澤宮、p177</ref>。退院後は腰に[[コルセット]]を巻いた状態で復帰したが、6試合の出場にとどまって、{{by|1987年}}シーズン途中に[[永田利則]]と共に[[西山秀二]](+金銭)との交換トレードで南海ホークスへ移籍。当時の南海の遊撃手は[[小川史]]、[[中尾明生]]、[[湯上谷竑志|湯上谷宏]]、[[坂口千仙]]など何人もの似たタイプの選手がレギュラー争いをしていた。[[5月]]から主に遊撃手として起用され、同年は65試合に先発出場。{{by|1988年}}は低迷するが、「福岡ダイエーホークス」となった{{by|1989年}}には[[二塁手]]、[[三塁手]]を兼ねる[[ユーティリティプレイヤー]]として活躍。自己最多の70試合に先発し、その後も準レギュラーとして起用され、1990年頃から[[藤本博史 (内野手)|藤本博史]]・湯上谷・小川との4人(4人とも名前読みが『ひろし』)で内野を守ることが度々あった。ファンには「鉄壁のディフェンス」と称され、6年間も同じグラブを使い続けた。革が破れても、紐が切れても、修理して同じグラブを使い、オフには十分手入れをして眠らせることも忘れなかった。練習のノックでは人の3倍の量をこなし、{{by|1993年}}に就任した[[根本陸夫]]監督は「森脇の存在は大きい。内野ならどこでも守れるから。彼がいるお陰で、前半、攻撃的な野球ができる」と言った<ref>澤宮、pp178-179</ref>。同年は藤本が[[一塁手]]に回り、その後継として開幕から三塁手として起用されるが、打撃の低迷もあってシーズン後半には[[若井基安]]に定位置を譲る。{{by|1994年}}には[[松永浩美]]の入団で出場機会が減り、{{by|1996年}}限りで現役を引退。
 
=== 近鉄時代 ===
引退後はダイエー→ソフトバンクで二軍野手育成コーチ({{by|1997年}})、二軍内野守備・走塁コーチ({{by|1998年}} - {{by|1999年}})、一軍内野守備・走塁コーチ({{by|2000年}} - {{by|2002年}}, {{by|2005年}}, {{by|2007年}} - {{by|2008年}})、[[二軍監督]]兼内野守備・走塁コーチ({{by|2003年}} - {{by|2004年}})、一軍チーフコーチ兼内野守備・走塁コーチ({{by|2006年}})、一軍ヘッド兼内野守備・走塁コーチ({{by|2009年}})を務めた。ノックの技術は球界屈指とされ<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20150207-1431548.html?style=print 森脇監督がT岡田復活へ愛情ノック105分] 日刊スポーツ 2015年2月7日</ref>、当時の[[王貞治]]監督も「ノックだけで飯が食える」と評している<ref>[http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20140619/bbl1406191140003-n1.htm オリックス・森脇監督 ONにはありがた迷惑な名人芸的恩返し]ZAKZAK 2014年6月19日</ref><ref>[http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/160416 オリ森脇監督の「休養会見」に巨人球団が冷ややかだったワケ] 日刊ゲンダイ 2015年6月3日</ref>。あるテレビ番組のコーナーで「ここ(通常の右打席)から打って三塁線のフェアーの打球を3バウンドさせ外野フェンスの○△×□社の広告の“×”の文字に当てて下さい」と注文された森脇は、いとも簡単に言われた通りのノックを披露してみせた。2006年はシーズン開幕前に王が[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表|WBC日本代表]]監督としてチームを離れていた間と、[[7月6日]]からは王の[[胃癌]]手術に伴う休養のため、監督代行を務めた。リーグ優勝を逃したことについて、「残念」「罪の意識すらある」と語った。あくまでも肩書は監督代行(チーフ)兼内野守備・走塁コーチであったため、王監督休養後も攻撃時には三塁ベースコーチボックスに立ち指揮していた。南海の選手であったこともあり、森脇が審判に抗議している時などは、南海時代の応援歌などが演奏されていた。2007年からは[[秋山幸二]]の一軍総合コーチ就任に伴い一軍内野守備・走塁コーチに専念し、2009年は監督に昇格した秋山の下で一軍ヘッド兼内野守備・走塁コーチを務めたが、[[11月24日]]に「組織の活性化」を理由に[[大石大二郎]]と入れ替わる形で解任<ref>[http://www.softbankhawks.co.jp/news/detail/4633.html 森脇 浩司ヘッドコーチの退団について]</ref><ref name="spo091126a">{{Cite web |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/flash/KFullFlash20091126011.html |title=何があったソフトバンク 指揮官戸惑い 愛弟子は号泣 |author= |publisher=スポニチ |accessdate=2009年11月26日 |date=2009-11-26}}</ref><ref name="spo091126b">{{Cite web |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2009/11/26/09.html |title=あり得ない…ソフトバンク大揺れヘッド入れ替え人事 |author= |publisher=スポニチ |accessdate=2009年11月26日 |date=2009-11-26}}</ref>。秋季[[キャンプ (日本プロ野球)|キャンプ]]でも指導し、秋山とも翌シーズンの話をしていたさなかの解任に対し、森脇は「今回の例は自分で最後にしてもらいたい」と発言した<ref name="spo091126a" />。ソフトバンク退団後の{{by|2010年}}からは[[J SPORTS]]・[[NHK福岡放送局]](本数契約)・[[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ日本]](本数契約)[[野球解説者|解説者]]を務め、[[2月8日]]からソフトバンクの編成アドバイザーとして契約を結んだ<ref>[http://www.softbankhawks.co.jp/news/detail/4979.html 編成アドバイザー契約のお知らせ]</ref>。{{by|2011年}}には1年だけ[[読売ジャイアンツ]]二軍内野守備・走塁コーチ<ref>{{Cite web|date=2010-10-26|url=http://www.giants.jp/G/gnews/news_393549.html|title=森脇浩司、清水崇行、小関竜也の3氏が二軍コーチに就任|publisher=読売ジャイアンツ|accessdate=2011-11-12}}</ref>を務め、{{by|2012年}}には[[オリックス・バファローズ]]一軍チーフ野手兼内野守備・走塁コーチに就任し<ref>{{Cite web|date=2011-11-12|url=http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20111112-862421.html|title=【オリックス】森脇コーチの就任を発表|publisher=日刊スポーツ|accessdate=2011-11-12}}</ref>、攻撃時は三塁ベースコーチを務めた。チームの最下位確定後の[[9月25日]]には[[岡田彰布]]監督の休養に伴い、同日から[[10月8日]]の最終戦まで監督代行として9試合指揮を執り、7勝2敗の成績を残した。{{by|2013年}}からオリックスの監督へ正式に就任<ref>[http://www.buffaloes.co.jp/news/detail/2698.html]2012年10月8日 オリックス・バファローズ オフィシャルサイト</ref>し、二軍監督ならびに一軍監督代行として指揮を執ったことはあっても、正式に一軍監督となるのは初めてであった。2012年10月8日のソフトバンクとのシーズン最終戦([[福岡ドーム|ヤフードーム]])後に監督就任の記者会見を行い<ref>[http://www.buffaloes.co.jp/news/detail/2697.html オリックス・バファローズ新監督就任記者会見の模様]2012年10月8日 オリックス・バファローズ オフィシャルサイト</ref>、会見の席では「悔しい思いを二度と味わわない。そして何よりもファンの方にも味わわす訳にはいかないという気持ちを一つに纏め、プロフェッショナルな意識を持っていきたい。」と意気込みを語った。1年目の2013年7月28日の[[埼玉西武ライオンズ|西武]]戦([[西武ドーム|西武D]])で[[李大浩]]の空振り三振をめぐる抗議で[[西本欣司]]球審への暴力行為で李と共に退場処分となったが(李は侮辱行為)<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20130729-1164700.html 【オリックス】森脇監督と李大浩が退場]日刊スポーツ2013年7月28日配信</ref>、森脇にとっては初の退場処分であり、監督代行は[[福良淳一]]ヘッドコーチが務めた。この年は5位に終わるが、{{by|2014年}}には開幕から上位を走ると、前半戦を首位でターン。[[8月24日]]には監督としての契約を[[2016年]]のシーズン終了まで延長することで合意に達したことが球団から発表され<ref>{{Cite web|date=2015-08-24|url=http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20140824-1355926.html|title=オリ森脇監督続投もう2年、長期政権へ|publisher=日刊スポーツ|accessdate=2015-09-01}}</ref>、公式戦では終盤にソフトバンクに逆転されて優勝を逃すも、首位とゲーム差なしの2位で終了。チームとしては2008年以来6年振りに[[2014年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]へ進出したが、ファーストステージ1勝2敗でシーズン3位の[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]に敗れた。{{by|2015年}}には[[トニ・ブランコ]]や[[中島裕之]]などの獲得による大型補強でシーズンに臨んだが、開幕から4連敗を喫した。さらには大型補強で獲得した選手や、投打の主力選手に故障や不振が相次いだ影響で最下位に低迷し、19勝34敗1分で迎えた開幕54試合目の広島戦([[5月31日]]・[[京セラドーム大阪|京セラ]])に敗れたことで、自力でのリーグ優勝の可能性が消滅した<ref>{{Cite web|date=2015-05-31|url=http://www.nikkansports.com/baseball/news/1485562.html|title=オリックス自力V消滅 3連敗で54戦借金15|publisher=日刊スポーツ|accessdate=2015-09-01}}</ref>。[[6月2日]]には成績不振を理由に休養することや、福良ヘッドコーチが監督代行に就任することが球団から発表された<ref>[http://www.buffaloes.co.jp/news/detail/4584.html 森脇浩司監督休養のお知らせ] オリックス・バファローズオフィシャルサイト(2015年6月2日)</ref>。[[8月31日]]付で監督職を正式に退任し、2015年[[9月1日]]付で[[仰木彬]]・[[中村勝広]]に次ぐ球団史上3人目のシニアアドバイザーに就任<ref>{{Cite web|date=2015-08-27|url=http://www.nikkansports.com/baseball/news/1529223.html|title=オリックス森脇監督が退任、シニアアドバイザー就任|publisher=日刊スポーツ|accessdate=2015-09-01}}</ref>。SA就任後はチーム編成・運営に関するアドバイスを球団のフロントへ伝える傍ら、[[野球評論家|評論家]]として活動することもあった。福良が監督へ正式に就任した{{by|2016年}}に、[[10月31日]]付でSAとしての任期を満了することから、同職を退任<ref>{{Cite web|date=2016-09-18|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/09/19/kiji/K20160919013385390.html|title=オリックス 前監督の森脇SAと契約更新せず 球団幹部が明かす|publisher=時事通信|accessdate=2016-09-25}}</ref>。[[11月1日]]からは[[長谷川滋利]]が職務を引き継いだ<ref>{{Cite web|date=2016-09-18|url=http://www.nikkansports.com/baseball/news/1728753.html|title=長谷川滋利氏「サポートしたい」オリックスSA就任|publisher=日刊スポーツ|accessdate=2016-10-24}}</ref>。{{by|2017年}}からは[[中日ドラゴンズ]]一軍内野守備・走塁コーチとして現場に復帰し、この年から就任した[[森繁和]]監督を支えるため、事実上のヘッドコーチの仕事もこなす。2016年[[11月1日]]から[[ナゴヤ球場]]での秋季キャンプへ合流し、コーチとしての活動を始動<ref>{{cite news|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/11/02/kiji/K20161102013647220.html|title=前オリ監督の森脇氏が中日コーチ!“森”監督の“脇”で参謀役に|newspaper=スポニチアネックス|date=2016-11-02|accessdate=2016-11-02}}</ref>。2017年[[8月13日]]の[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]戦([[ナゴヤドーム|ナゴヤ]])は森が私用のため試合途中でベンチを離れるため、3回から[[監督代行]]を務め、その試合はチームを勝利へと導いた<ref>{{Cite news|title=【中日】試合途中に森監督から森脇監督代行へ|newspaper=[[スポーツ報知]]|date=2017-08-13|publisher=[[報知新聞社]]|url=http://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20170813-OHT1T50094.html|accessdate=2017-08-29}}</ref>。[[2018年]]には新設の一軍野手チーフコーチへ異動<ref name="dragons">{{Cite news|title=【中日】森野コーチは二軍、朝倉コーチは一軍…首脳陣割り振り決定|newspaper=[[スポーツ報知]]|date=2018-01-15|publisher=[[報知新聞社]]|url=http://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20180115-OHT1T50148.html|accessdate=2018-01-17}}</ref>したが、一軍は最下位を免れたものの、シーズン終了後には森が監督を退任したことに伴って退任。退任の際には、「森さんの力、ドラゴンズの力になるために全力を尽くす形でやってきたが、監督が退任されるので一蓮托生です。」と述べている<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/10/18/kiji/20181018s00001173112000c.html 中日 退任のコーチ陣があいさつ 森脇氏「森監督と一蓮托生」 近藤氏「責任を取らないと」]スポーツニッポン(2018年10月18日)</ref>。中日退団を機に学生野球資格の回復に向けて研修会を受講し<ref>[https://www.sanspo.com/baseball/news/20181215/bbo18121505010001-n1.html 学生野球の資格回復研修、高田繁氏ら136人が受講]サンケイスポーツ(2018年12月15日)</ref>、{{by|2019年}}[[2月5日]]付で[[日本学生野球協会]]から資格回復の適性を認定されたため、同協会に加盟する大学・高校の硬式野球部での指導が可能になった<ref>[https://www.student-baseball.or.jp/system/prog/reinstatement_list.php?kid=4 学生野球資格回復に関する規則 第4条による認定者]日本学生野球協会</ref>。同年[[4月12日]]付で[[福岡工業大学]]特別コーチに就任<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/201904040000572.html 森脇浩司元オリックス監督が福岡工大コーチに就任]</ref>。その傍ら[[トゥエルビ]]副音声ゲストとしての野球解説者や野球評論家として活動する。
[[兵庫県立社高等学校|社高校]]は県大会でも3回戦レベルの高校であったが、才能が突然開花。1年次の{{by|1976年}}から[[遊撃手]]であったが、強肩で遠投をさせれば130mを投げ、この時グラウンドにいた[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]のスカウトが仰天して「'''[[カラス]]の中に[[ハクチョウ|スワン]]がいる'''」と言ったほどであった<ref>三塁ベースコーチが野球を変える、[[澤宮優]]、[[河出書房新社]]、2018年、ISBN 430941656X、p173</ref>。[[1978年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1978年のドラフト]]2位で近鉄に入団。3年目の{{by|1981年}}には一軍に定着し、遊撃手として13試合に先発出場。57試合に出場して打率.316をマークしたが、[[9月28日]]の[[福岡ソフトバンクホークス|南海]]戦([[藤井寺球場|藤井寺]])では走者一塁で一・二塁間を破る安打で出塁し、一塁走者が三塁を狙う中、[[右翼手]]が三塁へ送球する間に森脇は二塁を陥れた。その後の後続打者の安打で森脇は生還しているため、森脇の積極的な走塁が生きた<ref>澤宮、p174</ref>。[[大石大二郎]]との二遊間コンビは「もう10年間は安泰」と首脳陣を喜ばせ、特に「練習だけは人に負けたくない」と練習量は若手でもトップクラスで、連日居残り特打を続けていた。高校時代からつけ始めていた野球日記を入団後も書き続け、すでに7冊目に達し、夜は[[テッド・ウィリアムズ]]の「バッティングの科学」に読み更けるなど研究熱心さも人一倍であった。女性ファンからのファンレターの数は[[梨田昌孝]]と双璧で、[[ニックネーム]]は「第二の梨田」であった<ref>澤宮、p174</ref>。[[仰木彬]]コーチは森脇の打球への反応、軽快なフットワーク、送球の速さを見て「守備はリーグで一級品」とまで折り紙をつけ、{{by|1982年}}に就任した[[関口清治]]監督は「日本一のショートになれる器」と太鼓判を押した<ref>澤宮、p174</ref>。同年の春季キャンプの紅白戦では課題の打撃でも力を付け、左右に打ち分ける技術も習得し、紅白戦の打率はチームトップになっていた。実戦形式のシート打撃では3打数3安打、左翼席への本塁打、右中間への二塁打、中前安打とあわや[[サイクルヒット]]という活躍を見せた<ref>澤宮、p175</ref>。開幕から9番・遊撃手に抜擢されるが、打撃面で伸びず夏場には[[石渡茂]]に定位置を譲るも、51試合に先発を果たす。シーズン中の[[6月23日]]に突然[[肩|右肩]]の炎症と[[足|右太腿]][[肉離れ]]を起こし、二軍落ちになってしまう。前年[[9月]]から肩の痛みがあったが、レギュラーの座を手放したくないために黙々と痛みに耐えながらプレーを続けたが、右肩は少し動かすだけでも痛むなど体は悲鳴を上げた。練習も満足にできる体ではなくなり、リハビリのためにプールのビート板でばた足をして下半身を強化するしかなかった<ref>澤宮、p175</ref>。{{by|1983年}}には見事復活したが、[[6月19日]]南海戦([[大阪スタヂアム|大阪]])で併殺のため二塁のベースカバーに入った瞬間に滑り込んだ走者の[[ジム・ライトル]]とぶつかって[[膝]]の[[靭帯]]を断裂。その後はなんとか回復したが<ref>澤宮、p176</ref>、[[谷真一]]の入団もあって出場機会が減少し、{{by|1984年}}に[[加藤秀司|加藤英司]]・[[大原徹也]]との2対2の交換トレードで[[福井保夫]]と共に[[広島東洋カープ]]へ移籍。近鉄時代に痛めた膝が治りきっておらず、{{by|1986年}}の[[日南市天福球場|日南]]キャンプ中の紅白戦で[[腰]]を骨折。今度は重傷で再びベッドに寝たきりで1ヶ月半の入院生活を余儀なくされたが、入院中の森脇のもとにある若い女性から手紙が届く。女性は病気で右手が急に不自由になって悲観した心境が綴られており、森脇は返事を書いた。数日後に女性の母親からお礼の手紙が届くが、実は女性はこの時[[自殺]]を考えており、森脇の手紙で思い止まったのであった。森脇も女性に励まされてリハビリに耐え、まずは歩くことから始まり、[[4月]]になってようやく[[ジョギング]]が医師から許された<ref>澤宮、p177</ref>。退院後は腰に[[コルセット]]を巻いた状態で復帰したが、6試合の出場にとどまって、{{by|1987年}}シーズン途中に[[永田利則]]と共に[[西山秀二]](+金銭)との交換トレードで南海ホークスへ移籍。当時の南海の遊撃手は[[小川史]]、[[中尾明生]]、[[湯上谷竑志|湯上谷宏]]、[[坂口千仙]]など何人もの似たタイプの選手がレギュラー争いをしていた。[[5月]]から主に遊撃手として起用され、同年は65試合に先発出場。{{by|1988年}}は低迷するが、「福岡ダイエーホークス」となった{{by|1989年}}には[[二塁手]]、[[三塁手]]を兼ねる[[ユーティリティプレイヤー]]として活躍。自己最多の70試合に先発し、その後も準レギュラーとして起用され、1990年頃から[[藤本博史 (内野手)|藤本博史]]・湯上谷・小川との4人(4人とも名前読みが『ひろし』)で内野を守ることが度々あった。ファンには「鉄壁のディフェンス」と称され、6年間も同じグラブを使い続けた。革が破れても、紐が切れても、修理して同じグラブを使い、オフには十分手入れをして眠らせることも忘れなかった。練習のノックでは人の3倍の量をこなし、{{by|1993年}}に就任した[[根本陸夫]]監督は「森脇の存在は大きい。内野ならどこでも守れるから。彼がいるお陰で、前半、攻撃的な野球ができる」と言った<ref>澤宮、pp178-179</ref>。同年は藤本が[[一塁手]]に回り、その後継として開幕から三塁手として起用されるが、打撃の低迷もあってシーズン後半には[[若井基安]]に定位置を譲る。{{by|1994年}}には[[松永浩美]]の入団で出場機会が減り、{{by|1996年}}限りで現役を引退
 
=== 広島時代 ===
近鉄時代に痛めた膝が治りきっておらず、{{by|1986年}}の[[日南市天福球場|日南]]キャンプ中の紅白戦で[[腰]]を骨折。今度は重傷で再びベッドに寝たきりで1ヶ月半の入院生活を余儀なくされたが、入院中の森脇のもとにある若い女性から手紙が届く。女性は病気で右手が急に不自由になって悲観した心境が綴られており、森脇は返事を書いた。数日後に女性の母親からお礼の手紙が届くが、実は女性はこの時[[自殺]]を考えており、森脇の手紙で思い止まったのであった。森脇も女性に励まされてリハビリに耐え、まずは歩くことから始まり、[[4月]]になってようやく[[ジョギング]]が医師から許された<ref>澤宮、p177</ref>。退院後は腰に[[コルセット]]を巻いた状態で復帰したが、6試合の出場にとどまって、{{by|1987年}}シーズン途中に[[永田利則]]と共に[[西山秀二]](+金銭)との交換トレードで南海ホークスへ移籍。
 
=== 南海時代 ===
当時の南海の遊撃手は[[小川史]]、[[中尾明生]]、[[湯上谷竑志|湯上谷宏]]、[[坂口千仙]]など何人もの似たタイプの選手がレギュラー争いをしていた。[[5月]]から主に遊撃手として起用され、同年は65試合に先発出場。{{by|1988年}}は低迷するが、「福岡ダイエーホークス」となった{{by|1989年}}には[[二塁手]]、[[三塁手]]を兼ねる[[ユーティリティプレイヤー]]として活躍。自己最多の70試合に先発し、その後も準レギュラーとして起用され、1990年頃から[[藤本博史 (内野手)|藤本博史]]・湯上谷・小川との4人(4人とも名前読みが『ひろし』)で内野を守ることが度々あった。ファンには「鉄壁のディフェンス」と称され、6年間も同じグラブを使い続けた。革が破れても、紐が切れても、修理して同じグラブを使い、オフには十分手入れをして眠らせることも忘れなかった。練習のノックでは人の3倍の量をこなし、{{by|1993年}}に就任した[[根本陸夫]]監督は「森脇の存在は大きい。内野ならどこでも守れるから。彼がいるお陰で、前半、攻撃的な野球ができる」と言った<ref>澤宮、pp178-179</ref>。同年は藤本が[[一塁手]]に回り、その後継として開幕から三塁手として起用されるが、打撃の低迷もあってシーズン後半には[[若井基安]]に定位置を譲る。{{by|1994年}}には[[松永浩美]]の入団で出場機会が減り、{{by|1996年}}限りで現役を引退。
 
=== 引退後 ===
引退後はダイエー→ソフトバンクで二軍野手育成コーチ({{by|1997年}})、二軍内野守備・走塁コーチ({{by|1998年}} - {{by|1999年}})、一軍内野守備・走塁コーチ({{by|2000年}} - {{by|2002年}}, {{by|2005年}}, {{by|2007年}} - {{by|2008年}})、[[二軍監督]]兼内野守備・走塁コーチ({{by|2003年}} - {{by|2004年}})、一軍チーフコーチ兼内野守備・走塁コーチ({{by|2006年}})、一軍ヘッド兼内野守備・走塁コーチ({{by|2009年}})を務めた。ノックの技術は球界屈指とされ<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20150207-1431548.html?style=print 森脇監督がT岡田復活へ愛情ノック105分] 日刊スポーツ 2015年2月7日</ref>、当時の[[王貞治]]監督も「ノックだけで飯が食える」と評している<ref>[http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20140619/bbl1406191140003-n1.htm オリックス・森脇監督 ONにはありがた迷惑な名人芸的恩返し]ZAKZAK 2014年6月19日</ref><ref>[http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/160416 オリ森脇監督の「休養会見」に巨人球団が冷ややかだったワケ] 日刊ゲンダイ 2015年6月3日</ref>。あるテレビ番組のコーナーで「ここ(通常の右打席)から打って三塁線のフェアーの打球を3バウンドさせ外野フェンスの○△×□社の広告の“×”の文字に当てて下さい」と注文された森脇は、いとも簡単に言われた通りのノックを披露してみせた。2006年はシーズン開幕前に王が[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表|WBC日本代表]]監督としてチームを離れていた間と、[[7月6日]]からは王の[[胃癌]]手術に伴う休養のため、監督代行を務めた。リーグ優勝を逃したことについて、「残念」「罪の意識すらある」と語った。あくまでも肩書は監督代行(チーフ)兼内野守備・走塁コーチであったため、王監督休養後も攻撃時には三塁ベースコーチボックスに立ち指揮していた。南海の選手であったこともあり、森脇が審判に抗議している時などは、南海時代の応援歌などが演奏されていた。2007年からは[[秋山幸二]]の一軍総合コーチ就任に伴い一軍内野守備・走塁コーチに専念し、2009年は監督に昇格した秋山の下で一軍ヘッド兼内野守備・走塁コーチを務めたが、[[11月24日]]に「組織の活性化」を理由に[[大石大二郎]]と入れ替わる形で解任<ref>[http://www.softbankhawks.co.jp/news/detail/4633.html 森脇 浩司ヘッドコーチの退団について]</ref><ref name="spo091126a">{{Cite web |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/flash/KFullFlash20091126011.html |title=何があったソフトバンク 指揮官戸惑い 愛弟子は号泣 |author= |publisher=スポニチ |accessdate=2009年11月26日 |date=2009-11-26}}</ref><ref name="spo091126b">{{Cite web |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2009/11/26/09.html |title=あり得ない…ソフトバンク大揺れヘッド入れ替え人事 |author= |publisher=スポニチ |accessdate=2009年11月26日 |date=2009-11-26}}</ref>。秋季[[キャンプ (日本プロ野球)|キャンプ]]でも指導し、秋山とも翌シーズンの話をしていたさなかの解任に対し、森脇は「今回の例は自分で最後にしてもらいたい」と発言した<ref name="spo091126a" />。ソフトバンク退団後の{{by|2010年}}からは[[J SPORTS]]・[[NHK福岡放送局]](本数契約)・[[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ日本]](本数契約)[[野球解説者|解説者]]を務め、[[2月8日]]からソフトバンクの編成アドバイザーとして契約を結んだ<ref>[http://www.softbankhawks.co.jp/news/detail/4979.html 編成アドバイザー契約のお知らせ]</ref>。{{by|2011年}}には1年だけ[[読売ジャイアンツ]]二軍内野守備・走塁コーチ<ref>{{Cite web|date=2010-10-26|url=http://www.giants.jp/G/gnews/news_393549.html|title=森脇浩司、清水崇行、小関竜也の3氏が二軍コーチに就任|publisher=読売ジャイアンツ|accessdate=2011-11-12}}</ref>を務め、{{by|2012年}}には[[オリックス・バファローズ]]一軍チーフ野手兼内野守備・走塁コーチに就任し<ref>{{Cite web|date=2011-11-12|url=http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20111112-862421.html|title=【オリックス】森脇コーチの就任を発表|publisher=日刊スポーツ|accessdate=2011-11-12}}</ref>、攻撃時は三塁ベースコーチを務めた。チームの最下位確定後の[[9月25日]]には[[岡田彰布]]監督の休養に伴い、同日から[[10月8日]]の最終戦まで監督代行として9試合指揮を執り、7勝2敗の成績を残した。
 
=== オリックス監督時代 ===
{{by|2013年}}からオリックスの監督へ正式に就任<ref>[http://www.buffaloes.co.jp/news/detail/2698.html]2012年10月8日 オリックス・バファローズ オフィシャルサイト</ref>し、二軍監督ならびに一軍監督代行として指揮を執ったことはあっても、正式に一軍監督となるのは初めてであった。2012年10月8日のソフトバンクとのシーズン最終戦([[福岡ドーム|ヤフードーム]])後に監督就任の記者会見を行い<ref>[http://www.buffaloes.co.jp/news/detail/2697.html オリックス・バファローズ新監督就任記者会見の模様]2012年10月8日 オリックス・バファローズ オフィシャルサイト</ref>、会見の席では「悔しい思いを二度と味わわない。そして何よりもファンの方にも味わわす訳にはいかないという気持ちを一つに纏め、プロフェッショナルな意識を持っていきたい。」と意気込みを語った。1年目の2013年7月28日の[[埼玉西武ライオンズ|西武]]戦([[西武ドーム|西武D]])で[[李大浩]]の空振り三振をめぐる抗議で[[西本欣司]]球審への暴力行為で李と共に退場処分となったが(李は侮辱行為)<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20130729-1164700.html 【オリックス】森脇監督と李大浩が退場]日刊スポーツ2013年7月28日配信</ref>、森脇にとっては初の退場処分であり、監督代行は[[福良淳一]]ヘッドコーチが務めた。この年は5位に終わるが、{{by|2014年}}には開幕から上位を走ると、前半戦を首位でターン。[[8月24日]]には監督としての契約を[[2016年]]のシーズン終了まで延長することで合意に達したことが球団から発表され<ref>{{Cite web|date=2015-08-24|url=http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20140824-1355926.html|title=オリ森脇監督続投もう2年、長期政権へ|publisher=日刊スポーツ|accessdate=2015-09-01}}</ref>、公式戦では終盤にソフトバンクに逆転されて優勝を逃すも、首位とゲーム差なしの2位で終了。チームとしては2008年以来6年振りに[[2014年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]へ進出したが、ファーストステージ1勝2敗でシーズン3位の[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]に敗れた。{{by|2015年}}には[[トニ・ブランコ]]や[[中島裕之]]などの獲得による大型補強でシーズンに臨んだが、開幕から4連敗を喫した。さらには大型補強で獲得した選手や、投打の主力選手に故障や不振が相次いだ影響で最下位に低迷し、19勝34敗1分で迎えた開幕54試合目の広島戦([[5月31日]]・[[京セラドーム大阪|京セラ]])に敗れたことで、自力でのリーグ優勝の可能性が消滅した<ref>{{Cite web|date=2015-05-31|url=http://www.nikkansports.com/baseball/news/1485562.html|title=オリックス自力V消滅 3連敗で54戦借金15|publisher=日刊スポーツ|accessdate=2015-09-01}}</ref>。[[6月2日]]には成績不振を理由に休養することや、福良ヘッドコーチが監督代行に就任することが球団から発表された<ref>[http://www.buffaloes.co.jp/news/detail/4584.html 森脇浩司監督休養のお知らせ] オリックス・バファローズオフィシャルサイト(2015年6月2日)</ref>。[[8月31日]]付で監督職を正式に退任し、2015年[[9月1日]]付で[[仰木彬]]・[[中村勝広]]に次ぐ球団史上3人目のシニアアドバイザーに就任<ref>{{Cite web|date=2015-08-27|url=http://www.nikkansports.com/baseball/news/1529223.html|title=オリックス森脇監督が退任、シニアアドバイザー就任|publisher=日刊スポーツ|accessdate=2015-09-01}}</ref>。
 
SA就任後はチーム編成・運営に関するアドバイスを球団のフロントへ伝える傍ら、[[野球評論家|評論家]]として活動することもあった。福良が監督へ正式に就任した{{by|2016年}}に、[[10月31日]]付でSAとしての任期を満了することから、同職を退任<ref>{{Cite web|date=2016-09-18|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/09/19/kiji/K20160919013385390.html|title=オリックス 前監督の森脇SAと契約更新せず 球団幹部が明かす|publisher=時事通信|accessdate=2016-09-25}}</ref>。[[11月1日]]からは[[長谷川滋利]]が職務を引き継いだ<ref>{{Cite web|date=2016-09-18|url=http://www.nikkansports.com/baseball/news/1728753.html|title=長谷川滋利氏「サポートしたい」オリックスSA就任|publisher=日刊スポーツ|accessdate=2016-10-24}}</ref>。
 
 
{{by|2017年}}からは[[中日ドラゴンズ]]一軍内野守備・走塁コーチとして現場に復帰し、この年から就任した[[森繁和]]監督を支えるため、事実上のヘッドコーチの仕事もこなす。2016年[[11月1日]]から[[ナゴヤ球場]]での秋季キャンプへ合流し、コーチとしての活動を始動<ref>{{cite news|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/11/02/kiji/K20161102013647220.html|title=前オリ監督の森脇氏が中日コーチ!“森”監督の“脇”で参謀役に|newspaper=スポニチアネックス|date=2016-11-02|accessdate=2016-11-02}}</ref>。2017年[[8月13日]]の[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]戦([[ナゴヤドーム|ナゴヤ]])は森が私用のため試合途中でベンチを離れるため、3回から[[監督代行]]を務め、その試合はチームを勝利へと導いた<ref>{{Cite news|title=【中日】試合途中に森監督から森脇監督代行へ|newspaper=[[スポーツ報知]]|date=2017-08-13|publisher=[[報知新聞社]]|url=http://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20170813-OHT1T50094.html|accessdate=2017-08-29}}</ref>。[[2018年]]には新設の一軍野手チーフコーチへ異動<ref name="dragons">{{Cite news|title=【中日】森野コーチは二軍、朝倉コーチは一軍…首脳陣割り振り決定|newspaper=[[スポーツ報知]]|date=2018-01-15|publisher=[[報知新聞社]]|url=http://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20180115-OHT1T50148.html|accessdate=2018-01-17}}</ref>したが、一軍は最下位を免れたものの、シーズン終了後には森が監督を退任したことに伴って退任。退任の際には、「森さんの力、ドラゴンズの力になるために全力を尽くす形でやってきたが、監督が退任されるので一蓮托生です。」と述べている<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/10/18/kiji/20181018s00001173112000c.html 中日 退任のコーチ陣があいさつ 森脇氏「森監督と一蓮托生」 近藤氏「責任を取らないと」]スポーツニッポン(2018年10月18日)</ref>。中日退団を機に学生野球資格の回復に向けて研修会を受講し<ref>[https://www.sanspo.com/baseball/news/20181215/bbo18121505010001-n1.html 学生野球の資格回復研修、高田繁氏ら136人が受講]サンケイスポーツ(2018年12月15日)</ref>、{{by|2019年}}[[2月5日]]付で[[日本学生野球協会]]から資格回復の適性を認定されたため、同協会に加盟する大学・高校の硬式野球部での指導が可能になった<ref>[https://www.student-baseball.or.jp/system/prog/reinstatement_list.php?kid=4 学生野球資格回復に関する規則 第4条による認定者]日本学生野球協会</ref>。同年[[4月12日]]付で[[福岡工業大学]]特別コーチに就任<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/201904040000572.html 森脇浩司元オリックス監督が福岡工大コーチに就任]</ref>。その傍ら[[トゥエルビ]]副音声ゲストとしての野球解説者や野球評論家として活動する。
 
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