「ノモンハン事件」の版間の差分
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この辻を中心とした関東軍参謀らによる関東軍の作戦計画は21日に[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]に伝えられ、[[陸軍省]]も交えて大論争となっていた。陸軍省の軍事課長[[岩畔豪雄]]大佐や[[西浦進]]中佐らは「事態が拡大した際、その収拾のための確固たる成算も実力もないのに、たいして意味もない紛争に大兵力を投じ、貴重な犠牲を生ぜしめる如き用兵には同意しがたい」と強硬に反対していたが、結局は[[板垣征四郎]][[陸軍大臣]]の「一個師団ぐらい、いちいち、やかましく言わないで、現地に任せたらいいではないか」の鶴の一声で関東軍の作戦計画は認められた{{Sfn|越智|p=143}}。関東軍が作戦準備をしているという情報を聞いた[[モスクワ]][[在ロシア日本国大使館|日本国大使館]]駐在武官[[土居明夫]]大佐は、関東軍を思い止まらせるため、モスクワから満州に向かい、道中の[[シベリア鉄道]]で見た、極東に輸送される大量の[[戦車]]や兵器類の情報を司令官の植田に知らせたが、関東軍はその情報を黙殺した<ref>{{Harvnb|半藤一利|1998|p=Kindle版2130}}</ref>。土居は、楽観的な関東軍に怒りと危機感を覚えながら帰国したが、東京に向かう飛行機内で参謀本部第4部長[[富永恭次]]少将と同席となったので、土居は「富永さん、植田司令官はノモンハン出動交戦を承認されたのですか」と聞くと、富永は苦々しげに「植田司令官は出動に内心不同意だったが、いやいやながら許可したらしい」と答えている<ref>{{Harvnb|土居明夫|1980|p=109}}</ref>。
関東軍の計画では、ハルハ河を渡河した地上部隊をモンゴル領内深くに進撃させることとなっていた。しかし中央の参謀本部は越境攻撃を原則禁じていため、関東軍は越境攻撃について中央に事前相談せず秘匿することとした{{Sfn|秦|2014|loc=Kindle版1282}}。[[昭和天皇]]は関東軍に不信感を抱いており、陸軍大臣の板垣が関東軍への野戦重砲2個連隊の増派の裁可を得に参内した際に、板垣の楽観的な説明に対し「満州事変の際も陸軍は事変不拡大といいながら、彼の如き大事件となりたり」と陸軍と関東軍への不信感を露わにした上、武力ではなくむしろ話し合いによる国境画定を行ったらどうかと示唆している{{Sfn|畑|1983|loc=loc=
====タムスク爆撃====
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===日本の事後処理===
関東軍の中には、辻発案の夜襲による総反撃が参謀本部の横槍で中止されたため、負けてはいないという強気な空気もあったが、陸軍中枢では陸相の畑が「大失態」{{Sfn|畑|1983|loc=
ノモンハン事件の後処理を任された沢田茂は陸軍省、参謀本部、関東軍から事情聴取を行うと、事件を主導した関東軍だけではなく、陸軍中枢の責任を負うべきとした。その主要な論点は下記の通りである{{Sfn|沢田|1982|p=152}}。
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** 畑陸相ら陸軍中枢では「第一線には責任なし。第一線はよく戦った。罪は中央と関東軍司令部とにある」とし、当初は第6軍の荻洲司令官や第23師団の小松原師団長らも不問とされる方向性であったが、小松原が「一時自決まで考えたが、その機を逸した。全ての責任を受ける覚悟である」と沢田に言ったように{{Sfn|沢田|1982|p=135}}荻洲と小松原と砲兵団長の畑は責任を感じて自ら進退伺を提出したため、受理されて予備役編入となった。
** ノモンハン戦の特徴として、ソ連軍の重囲下で、死傷者が累積し弾薬や食糧も尽きた部隊の「無断撤退」が相次いだことが挙げられる{{Sfn|秦|2014|loc=Kindle版4467}}。敗戦体験に乏しい日本陸軍には予想もできなかった現象であり、参考になる前例が殆どなかった。自らの責任を取ると言って進退伺を出した荻洲と小松原であったが、陸軍刑法第43条に則してこの「無断撤退」を徹底的に追及しようと考えていた。師団長級以上の将官級の賞罰については、陸相が決定し天皇の意向も打診しなければならなかったが、連隊長級の部隊指揮官の賞罰については、陸軍[[懲罰]]令により軍司令官・師団長の権限と定められており、荻洲や小松原の意向により厳しい処分となった{{Sfn|越智|p=316}}。小松原が「無断撤退」に対して強く拘った背景には、第一次ノモンハン事件の際に、部隊が敵中で孤立したため、隊付の師団参謀が撤退の進言を行ったのに対し、未だ連隊からの撤退命令が届いていなかったため、陣地から後退せず玉砕した東捜索隊の東中佐に対し「命令なき以上は撤退せずと動じなかったのは敬服に価す」と日記に書いたほど強い印象を持っていたことや{{Sfn|秦|2014|loc=Kindle版1077}}、壊滅した連隊の連隊長の多くが戦場で戦死したり、下記の通り自決したりしていることが影響しているものと思われる。
** 小松原は特にフイ高地を無断撤退した井置中佐とノロ高地を無断撤退した長谷部大佐を特に槍玉にあげて「両者とも火砲、重火器破壊せられ弾薬欠乏、守地を守るに戦力なきを理由とするならんも、これは理由となすに足らず」と、撤退を余儀なくされた状況への配慮はまったくなく、両名を軍法会議にかけようと決意していた{{Sfn|秦|2014|loc=Kindle版4645}}。しかし、軍司令官の荻洲の意向により軍法会議は開廷されなかったため、小松原は両名に対し、軍法会議であれば死刑相当の罪であるから自決勧告を行うこととし、荻洲も了承した{{Sfn|秦|2014|loc=Kindle版4515}}。小松原は、井置の処置に関しての第23師団幕僚による会議を開いたが、扇広参謀や木村松治郎 参謀が「何とか憐憫の情を」と訴えるも最初から結論ありきで、小松原の強い意向により自決勧告が行われた{{Sfn|扇|1986|p=302}}。井置は師団を代表した同期の高橋浩亮騎兵中佐から師団の決定を伝えられると「謹んでお受けする」と答えて、9月17日未明に拳銃で自決した。その知らせを聞いた小松原は「井置中佐の処分は陸軍刑法にて行った。もし自決しなければ軍法会議にかかり銃殺は当然。これを戦死と認め、[[靖国神社]]に祀ることは許されない」と言い放ち「戦病死」と関東軍に報告して進級を認めなかった{{Sfn|扇|1986|p=310}}。井置については関東軍参謀の辻も戦場からの報告を関東軍司令部に行った際に「フイ高地は八百の兵力中三百の死傷を生ぜしのみにして、守地を棄てたるに対して謝罪の字句の無きを知り」と激しく非難し{{Sfn|現代史資料10|1963|p=92}}、軍法会議にかけるべきという主張をしていた{{Sfn|偕行432|1986|loc=
** 自決勧告の他に下記の表の通り多くの部隊指揮官級を更迭ないし左遷している。ノモンハン事件で唯一懲戒免官処分に付されたのが野戦重砲第1連隊中隊長の土屋正一大尉であった。この免官は査問も軍法会議もなく唐突に命じられたものであったが、法的根拠を欠く自決勧告と異なり、内閣の発令で首相が決済し、『[[官報]]』にも記載された合法的なもので、陸相から首相に対する説明では、「砲と運命を共にするという砲兵精神を欠き、密かに掩蔽部に隠れ、敵の監視が緩んだのに乗じて師団主力の位置まで無断撤退した」というものであった{{Sfn|秦|2014|loc=Kindle版4638}}。この他にも、兵士の服に着替えて地下足袋姿で戦場を離脱したと風聞が流れた野戦重砲第7連隊長の鷹司信熙らが{{Sfn|沢田|1982|p=109}}、将官や参謀らと同様に予備役に編入させられたり懲罰的な左遷を受けたが、中には歩兵第26連隊長の須見のように、独断撤退をしたわけでもないのに、師団長に意見具申を行ったことを不服従と認定され予備役編入となった者もあった{{Sfn|越智|p=316}}。更迭や左遷の人事異動については、軍司令官や師団長が陸軍中央に異動を上申するという手続きを踏むため、これらの処分については陸軍中央も了承していたことになる。陸軍人事当局の目論見は、進退伺を受理し退任が決定している「敗軍の将」荻洲と小松原に「汚れ役」をやらせて、必要に応じて修正するのが好都合と考えていたので、両名の好きなようにやらせていた{{Sfn|秦|2014|loc=Kindle版4471}}。
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<!-- 自決勧告がなされなかった将校や下士官兵は第6軍の秘密軍法会議で裁かれた。中山仁志上等兵は、第6軍から「陛下の特別のお言葉でお前らは罰しない。しかし本当のことを言え」と取り調べを受け、陛下のお言葉にも関わらず「重謹慎20日、ただし降等はせず」の判決を受けた。それで20日にわたって新京陸軍病院の分院で毎日[[軍人勅諭]]を詠みながら座禅を組まされたという。あまりのつらさに自殺者も出ている<ref>『人間の記録 ノモンハン戦(壊滅編)』{{Full citation needed|date=2020年8月}}</ref>。-->
ソ連側の捕虜に対する対応も日本側と変わらず、スターリンは独ソ戦の際に「投降者は家族も反逆者として逮捕する」と指令を出し{{Sfn|秦|2014|loc=Kindle版4861}}、ドイツ軍の捕虜となった自分の息子[[ヤーコフ・ジュガシヴィリ]]を見捨てたぐらい捕虜に厳しく、ソ連軍各部隊も個別に捕虜になることを禁じた訓示を制定しており、ジューコフも同様の指示を出していた{{Sfn|秦|2014|loc=Kindle版4707}}。そのため帰国した捕虜らも軍法会議で処罰されており、1939年7月に日本の新聞に掲載されたソ連軍の戦車の投降する写真で、写っていた戦車兵らは帰国すると10年 - 8年の間[[ラーゲリ]]に送られている{{Sfn|岩城|p=126}}。そのため、ソ連軍側でも日本軍と同様に捕虜になることを恐れて多くの将兵が自決しており、日本軍もその光景を目撃している{{Sfn|ノモンハン・ハルハ河戦争|loc=
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