「甘利信康」の版間の差分

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[[甘利虎泰]]の子として誕生。
 
[[武田信玄|晴信(信玄)]]・[[武田勝頼|勝頼]]2代に仕えた。[[永禄]]10年([[1567年]])3月6日には[[真田幸綱]](幸隆)が[[白井上杉氏]]の拠点[[上野国]][[白井城]]を攻略しており、これが初見とされる<ref>平山(2008)、p.302</ref>。同年8月7日の[[下之郷起請文]]では、[[城景代]][[今井昌茂]][[玉虫定茂]][[六嶋守勝]]と連名で「[[庭谷衆]]」として[[吉田信生]]、[[浅利信種]]に[[起請文]]を提出している<ref>平山(2008)、p.302</ref>。永禄末年の[[武田信玄陣立書]]では信玄本陣を守る[[鉄砲]]衆として記載されている<ref>平山(2008)、pp.302 - 303</ref>。
 
永禄10年(1567年)に兄・[[甘利信忠|信忠(昌忠)]]が死去しており、信忠の子・[[甘利信頼|信頼]]が幼少であったため[[名代]]を務めていたとも考えられている。『[[甲斐国志]]』では信康を信忠の子弟とし、[[天正]]3年([[1575年]])5月21日の[[長篠の戦い]]で戦死したとしている。『[[甲陽軍鑑]]』では長篠合戦における左翼の[[山県昌景]]隊に「あまり衆」が属していたと記しており、これは信頼を指していると考えられている<ref>平山(2014)、p.224</ref>。『[[信長公記]]』では長篠合戦の戦死者として「甘利藤三」を記載している<ref>平山(2014)、p.247</ref>。『[[宣教卿記]]』でも長篠戦死者に「あまり」を記している。