「メフメト3世」の版間の差分

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'''メフメト3世'''('''Mehmed III''', [[1566年]][[5月26日]] - [[1603年]][[12月22日]])は[[オスマン帝国]]の第13代[[皇帝]](在位:[[1595年]][[1月15日]] - 1603年12月22日)。父は第12代皇帝[[ムラト3世]]、母は[[サフィエ・スルタン]]。子に[[アフメト1世]]、[[ムスタファ1世]]。
 
メフメトは1566年にマニサで後の[[ムラト3世]]とサフィエとの間で生まれた。メフメトは[[マニサ]]で父と母と過ごし、1582年に[[割礼]]を受けた。
 
1595年、父の死により後を継ぎ、[[皇帝]]として[[即位]]する。しかし父と同じく無能な皇帝で、[[政治]]は母や宰相らに任せ切りであったため、帝国の衰退が促進される治世期ともいえる。彼自身が、戦場に赴いたのは、即位直後の一度のみであった。
 
彼が即位した時には19人の男子の兄弟がいたが、[[伝統]]に従い止むを得ず全員殺してる。宮廷を出る前スルタンとその子供たちの棺の列があまりにも長かったため、人々は哀れみ、嘆き悲しんだという。このため、次に即位した[[アフメト1世]]は弟のムスタファ(後の[[ムスタファ1世]])を殺さずに残し、以後、新[[スルタン]]の即位する時の兄弟殺しは、行われなくなった。
 
[[ハンガリーで]]の長期戦争では、1596年にエゲルを占領し、メフメト3世率いる軍がメゼーケレシュテにおいて、ハプスブルク軍を打ち破ったが、1598年にはかつて占領したジュールがハプスブルク側に奪還された。1600年にはオスマン軍はカニジャを占領するが、1601年にセーゲシュフェヘールを奪われた。翌年にはセーゲシュフェヘールを奪還するが、ハンガリー支配の拠点の[[ブタ]]がハプスブルク側に包囲された。ブタの陥落こそは免れたものの、戦いはしだいに辺境の[[城塞]]をめぐる争奪戦の様相を呈した。
 
[[ハプスブルク家]]とハンガリーを巡って戦争してる頃、足下のアナトリアや[[シリア]]では、反乱が相次いでいた。その反乱者はジェラーリーといった。彼らは財政難に陥った中央政府によって封土を没収されたスィパーヒーやワクフの減少によって貧困化した[[マドラサ]]の学生、そして土地を没収された[[農民]][[遊牧民]]らであった。その反乱の第一波は1596年に始まる。ジェラーリーらは下級軍人の[[カラ・ヤズジュ]]の反乱に合流をした。1600年にカラ・ヤズジュは[[スルタン]]であると宣言した。オスマン側はハンガリー戦線に忙殺され、その討伐に十分な兵力を割けない事態になった。カラ・ヤズジュは1601年に[[ソコルル・メフメト・パシャ]]の息子でバグダードの知事のソコルルザーデ・ハサン・パシャに敗れたが、カラ・ヤズジュの兄の[[デリ・ハサン]]が翌年にソコルルザーデ・ハサン・パシャを打ち取った。1602年にカラ・ヤズジュは死ぬがデリ・ハサンが跡を継いだ。また、他の地方でも、ウズン・ハリルの乱、カレンデルオールの乱、ジャンポラントの乱などが起きた。ジェラーリーの反乱において、騎馬で機動力のある[[山賊]]の集団が各地で村や町を襲ったため、[[オスマン帝国]]の台帳にあったはずの村までが消える事態にまでなった。これにより、所領の村から徴税で生計を立てていた在郷騎士たちが、生活できなくなり、彼ら自身もジェラーリーになるという負の連鎖が存在した。さらには、カラ・ヤズジュ討伐にあたってたはずのカラマン州軍政官も待遇への不満から反乱軍に加わった。
 
ジャンポラントの乱を起こしたジャンポラント(アラブ名ジュンブラード)は、オスマン王家による支配を不正であると捉えて、自分がそれにとって変わろうとした。ジャンポラントはもともと[[シリア]]との国境に近いキリス地方の支配者であったが、勢力がシリアへ拡大すると[[レバノン]]の名家マアンオール家と結んで[[アレッポ]]を足場に独立宣言をした。
 
カレンデルオールの乱を起こしたカレンデルオールは手下に当てた手紙で、「オスマン王家は圧政者で、彼らは増長しきってる。ジャンポラントの反乱以降我々はオスマン王家に見切りをつけ、命ある限りは彼らに服従しない。アッラーの加護があるならば我々は、オスマン軍を打ち負かし、[[ユスキュダル]](ボスホォラス海峡のアジア側)からこちら側をオスマン王家に諦めさせる。」と書いてある。オスマン王家は[[バルカン半島]]を支配すれば良い、アナトリアは我々が支配する、という意思が感じられる。
 
また、メフメト3世は国内において、新しい困難に直面することとなった。それは17世紀初頭の[[イスタンブール]]での騒擾である。これは[[大宰相]]とイスラム長老が対立し、前者は[[イェニチェリ]]、後者は常備騎兵と繋がることで、両集団の争いが[[暴力]]を伴う抗争に激化した。最終的には鎮静化したものの、これ以降たびたびこの騒擾は繰り返されるようになる。この騒擾においては、常備騎兵軍団によってメフメトの廃位か仄めかされていた。これに動揺したメフメトは、1603年、混乱の背後に長男マフムトがいると疑い彼とその母、そして使用人たちを[[処刑][した。
 
晩年には[[アッバース1世]]率いる[[サファヴィー朝]]がかつて父の[[ムラト3世]]が獲得した領土に侵攻してきた。
 
1603年、暴飲暴食により38歳で死去し、後を子の[[アフメト1世]]が継いだ。
 
{{オスマン帝国皇帝}}