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== 歴史 ==
古くから{{仮リンク|ハタルカーン|en|Xacitarxan|label=アストラカンl}}('''Xacitarxan'''または'''Actarxan''')などと呼ばれ、ヴォルガ川右岸に町があった。[[ハザール]]の時代にはこの一帯はハザールの主要な地域であり、アストラハンの南南西40kmにある村・{{仮リンク|サモスデルカ|en|Samosdelka}}はハザールの都・[[イティル]]と推定されている。[[ジョチ・ウルス]]の時代にはアストラハンの北120kmにあるセリトリャンノイェ村(Selitryannoye)近くで首都[[サライ (都市)|サライ]]が置かれた。しかし、[[1395年]]には[[ティムール]]によって灰燼に帰した。そこで12kmほど南の今日のアストラハンの地に町を再建。[[15世紀]]後半から[[アストラハン・ハン国]]の首都であったが、[[1547年]]、[[クリミア・ハン国]]の軍勢に包囲される。[[1556年]]には[[イヴァン4世]](雷帝)によって征服され町は炎上する。[[1569年]]には[[オスマン帝国]]の侵攻・包囲を受けるが、結局、オスマン帝国は撤退。以降、ロシアの前哨都市として発展。[[アルメニア人]]、[[ペルシア人]]、[[インド人]]、[[ヒヴァ・ハン国|ヒヴァ人]]なども居住する国際的な交易都市となる。[[1670年]]、[[スチェパン・ラージン|ステンカ・ラージン]]の率いた軍勢に占領され、ロシア政府に対する抵抗の拠点となった。[[18世紀]]に入ると、[[ピョートル1世]]がこの地に[[造船所]]を建設、しかし、[[1704年]]には、ピョートル1世が導入した新税に反発して反政府の蜂起が発生し、当時の地方長官が処刑される事件が起こったが、軍によって鎮圧された。その後、アストラハンはロシアの[[中央アジア]]侵略の基地として機能していく([[:en:Alexander Bekovich-Cherkassky]])。町は18世紀を通じて何度も大火に遭い、また[[1719年]]には[[サファヴィー朝]][[ペルシア]]の侵略も受け、[[1735年]]に和睦した。[[1830年]]、[[コレラ]]の流行で多くの人命を失う。
 
[[1942年]]、[[ドイツ国防軍]]は[[ブラウ作戦]]を展開、[[ドイツ空軍]]によって市内の石油基地や港湾施設が空襲された。