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当時の東晋は、安帝を擁立した叔父の[[会稽]]王[[司馬道子]]・[[司馬元顕|元顕]]父子が政治を壟断し、朝野からの非難が高まっていた。[[隆安]]2年([[398年]])、北府軍団の長として[[鎮江市|京口]]に鎮していた[[王恭]]が司馬道子打倒の兵を挙げると、当時[[広州 (広東省)|広州]][[刺史]]であった桓玄は[[荊州]]刺史の[[殷仲堪]]らと共にこれに呼応した。挙兵自体は王恭の配下の武将で、実際に北府軍団を指揮していた[[劉牢之]]の裏切りにより、王恭が敗死したことから失敗に終わる。しかし桓玄自身はこれを利用して[[江州 (江西省)|江州]]刺史となるなど自分の勢力拡大に成功、翌隆安3年([[399年]])には殷仲堪と[[雍州]]刺史の楊佺期を殺し荊州・雍州を制圧、かつて父が支配していた西府軍団を掌握し、長江中流域を制覇した。この頃に一時期ではあるが、田園詩人として有名な[[陶淵明]]が桓玄の[[幕僚]]を勤めている。
 
同年、司馬道子らの圧政に対して、[[五斗米道]]系の[[道士]]・[[孫恩 (東晋)|孫恩]]に率いられた民衆の反乱が起きた([[孫恩の乱]])。反乱自体は劉牢之が率いる北府軍団の活躍により[[元興 (東晋)|元興]]元年([[402年]])に鎮圧されたが、この混乱を好機とみた桓玄は、軍団を率いて[[長江]]を下り首都[[建康 (都城)|建康]]に迫った。一方の司馬道子父子は[[劉牢之]]に勅書を出し桓玄の討伐を命じたが、劉牢之は桓玄に寝返り、建康に入った桓玄は司馬道子父子らを殺害、総百揆・[[侍中]]・都督中外諸軍事・[[丞相]]・[[録尚書事]]・[[揚州 (古代)|揚州]][[刺史|牧]]などの称号を手に入れた。この時、今まで併用されていた[[竹簡]]や布の[[公文書]]を廃して全て紙製の公文書に統一したといわれている。
 
さらに桓玄は劉牢之から北府軍団の実権を奪い、これに怒った劉牢之は桓玄を討とうとしたが、度重なる寝返りを行ったことから部下の劉裕らに見放され、逃亡した後自殺した。こうして東晋の実権を掌握した桓玄は、 [[元興 (東晋)|元興]]3年([[403年]])12月、安帝より帝位の禅譲を受ける形で皇帝に即位、国号を楚とし、[[元号]]を[[永始 (桓玄)|永始]]と定めた。