「本田宗一郎」の版間の差分

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貨車2号 (会話 | 投稿記録)
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{{出典の明記|section=1|date=2013年2月|ソートキー=人1991年没}}
*終戦直後は何も事業をせず、土地や株を売却した資金で合成酒を作ったり、製塩機を作って海水から[[塩]]を作り[[米]]と交換したりして「遊んで」いたという。しかしこの時期に、苦労して買い出しをしていた妻の自転車に「エンジンをつけたら買い出しが楽になる」と思いつき、オートバイ研究が始まる<ref>NHK あの人からのメッセージ番組内で、本田宗一郎が自ら経緯を語る</ref>。
*1950年代前半、生来の機械好きが高じて資本金600万円の時代に総額4億円の外国製工作機械を購入。しかし1955年には100社を超えるオートバイメーカーが撤退する不況が訪れ、ダイヤモンド誌に「高い金を出して機械を買っても使い切れていない」と過剰な設備投資を批判されるが、後に「会社がつぶれても機械そのものは日本に残って働くだろう。国民の外貨は決してムダにはなるまい。」と当時の心境を語っている。会社は、シェア1位の[[東京発動機]](トーハツ)が買収に乗り出すほどの苦境に陥るのの、[[三菱銀行]]京橋支店が社是「世界的視野に立て」に共感して[[融資]]を行い辛うじて踏みとどまった<ref>{{Cite web |date=2020-04-12 |url=https://bizhint.jp/report/407395?trcd=feature1 |title=ホンダの2度の倒産危機・復活に凝縮される、本田宗一郎の真の凄さ |publisher=BIZ HINT |accessdate=2020-04-17}}</ref>。
*会社のハンコを[[藤沢武夫]]に預け、経営もすべて任せていた。本田は社印も実印も見たことがなく<ref>本田宗一郎『やりたいことをやれ』(2005年・PHP研究所 258P)</ref>、技術部門に集中し、のちに「藤沢がいなかったら会社はとっくのとうに潰れていた」と述べており、藤沢も「本田がいなければここまで会社は大きくならなかった」と述べている<ref>山本治『ホンダの原点』p56-本田と藤沢(自動車産業研究所刊・成美堂出版)</ref>。互いに「[[西落合 (新宿区)|西落合]]」(本田の自宅のある地)、「[[六本木]]」(藤沢の自宅のある地)とざっくばらんに呼び合っていた。また両者は「会社は個人の持ち物ではない」という考えをもっており身内を入社させなかった<ref>ただし、本田の弟・弁二郎の「本田金属技術」や息子・博俊の「無限」など、'''親族経営の関連会社'''は存在する。</ref>。宗一郎は社名に個人の姓を付したことも後悔もしていた{{要出典|date=2020年5月}}。
*経営難に陥ったときに藤沢の助言で[[マン島TTレース]]や[[フォーミュラ1|F1]]などの世界のビッグレースに参戦することを宣言し、従業員の士気高揚を図ることで経営を立て直した。出場宣言は藤沢によって書かれた<ref>藤沢武夫 『経営に終わりはない』(1998年・[[文春文庫]] 43ページ) </ref>。
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*大の[[別荘]]嫌いで「1年のうちに1週間から10日しか住まない所に金をかけるなんて実にばからしい」と言い、生涯所有はしなかった。
*差別を「諸悪の根源」とし、差別を徹底して嫌っていた。子どものころに「家族の中でお風呂に入る順番が決まっている」ことに気づいてからだという。「人種や家柄や学歴などで人間を判断することを、私は今日まで、徹底してやらなかった」<ref>本田宗一郎『やりたいことをやれ』(2005年・PHP研究所)</ref>。
**[[松阪市]]で開かれたある会議に参加した本田は、管理職の1人が[[松阪牛]]の料理店・[[和田金]]での昼食を提案したところ、「(会議の参加者)50人も一緒に食事できる部屋はあるのか」と問い、一部管理職以外の参加者が[[弁当]]を食べることを知ると、「じゃあ、おれも弁当にする」と即答した<ref name="hd1">{{cite web|url=https://online.sbcr.jp/2013/11/003668.html|title=本田宗一郎の「"仕事"への熱を加速させる言葉」|work=[[SBクリエイティブ|SBCr]]Online|date=2013-11-27|accessdate=2019-01-01}}</ref><ref name="hd2">{{cite web|url=https://www.excite.co.jp/news/article/Sinkan_index_5360/|title=高級牛肉を拒否!本田宗一郎の生き様|author=新刊JP編集部|work=[[エキサイト]]ニュース|date=2015-01-07|accessdate=2019-01-01}}</ref><ref name="hd3">{{cite web|url=https://books.google.co.jp/books?id=jvm-CAAAQBAJ&pg=PA2039&lpg=PA2039&dq=%E5%92%8C%E7%94%B0%E9%87%91+%E6%9C%AC%E7%94%B0%E5%AE%97%E4%B8%80%E9%83%8E&source=bl&ots=AebPrp5A30&sig=Ia8_cLisOq2uxn54X2K9DYd2gEs&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwiXmuuX68vfAhVY57wKHW2iCVkQ6AEwA3oECAcQAQ#v=onepage&q=%E5%92%8C%E7%94%B0%E9%87%91%20%E6%9C%AC%E7%94%B0%E5%AE%97%E4%B8%80%E9%83%8E&f=false|title=一冊でわかる!本田宗一郎:「世界のホンダ」を創り上げた男の「挑戦の軌跡」|author=梶原一明|work=[[PHP研究所]]|publisher=[[Google ブックス]]|date=2016-11-04|accessdate=2019-01-01}}</ref>。
*邱永漢・渡部昇一『アジア共円圏の時代』によると、作家・経済評論家の[[邱永漢]]に、ホンダの海外の工場で一番うまくいっているところと一番具合が悪かったところを問われた本田は「いいほうを『台湾』、悪いほうを『[[韓国]]』」と答えたという。韓国について、「『どうしてですか?』と尋ねると、『向こうへ行って、オートバイを作るのを教えた。それで、一通りできるようになったら、『株を全部買いますから、帰ってくれ』と言われた。『どうしましょうか』と下の者が聞いてきたから、『そんなことを言われるところでやることはねえよ』と言って、金を返してもらった。その翌日に朴正煕が殺されたんだ』とおっしゃった」という<ref>邱永漢・渡部昇一『アジア共円圏の時代』p.86より</ref>。なお、本田がオートバイを作るのを教えたとされる台湾および韓国のメーカーは本書では明らかにされていない。ちなみに朴正煕が殺された1979年当時、ホンダが韓国で提携していたのは起亜技研(起亜グループの二輪車部門)であり、実際にホンダは1975年より続いた起亜技研との合弁事業を1979年に解消して資本撤退している<ref>『本田技研、韓国での二輪車合弁事業を解消、起亜産業から資本撤退』 - 日経産業新聞 1979年9月24日</ref>が、一方で技術供与は継続しており、起亜のバイクが「KIA Honda」ブランドで販売されていた。また、1981年に起亜技研が大林グループ入りして[[デーリムモーター|大林自動車]]となった際には大林自動車にも技術供与を行い、大林のバイクが「DAELIM Honda」ブランドで販売されていた<ref>[http://ameblo.jp/nidanosuke/entry-10429952763.html ★本田宗一郎氏「韓国人とは関わるな」発言はデマですよ] - ☆杉野洋明 極東亜細亜研究所~韓国系企業の元社員が語る韓国</ref><ref>『本田、韓国で起亜技研に続き大林工業に二輪車技術供与~鈴木自・暁星機械組と激突』 - 日経産業新聞 1981年12月12日。『帰ってくれ』と言われたはずの1979年以降もホンダから起亜技研への技術供与が継続していたことを示す</ref>。ホンダが起亜に「帰ってくれ」と言われたのが事実かどうかは不明だが、少なくとも起亜技研・大林自動車とは合弁解消以後も良好な関係を持っており、ホンダが起亜と提携した1975年以降で「Honda」ブランドが韓国から撤退したことはない。
*また、「韓国側は、本田とのライセンス契約を一方的に解消し、エンジンからデザインまでまったくのコピー品を『韓国ブランド』として販売を始め、宗一郎は周囲に『韓国とは絶対に関わるな』と言いつけた」と言うエピソードがネット上で流布しているが、ソースが不明であるうえに、本田の存命中に起亜および大林がホンダとの提携を解消したことはなく、事実に反する。なお、ホンダとの提携を解消する2000年代以前の大林のバイクはエンジンからデザインまでホンダのまったくのコピー品が多いが、当然ながらライセンス契約を結んで正式に技術供与を受けているからであり、車体には「HONDA」と「Daelim」双方のエンブレムがある。2001年には大林自動車の元社長を招聘してホンダコリアが設立され<ref>[http://www.honda.co.jp/news/2001/c011105.html ホンダ 韓国に二輪車販売の現地法人設立]</ref>、2004年に大林との提携を解消して「Honda」ブランドで韓国市場に直接参入するなど、1961年に韓国初のバイク「KIA Honda C100」を発売して以来、本田宗一郎の生前も没後もホンダと韓国の関わりは密接であり続けている。