「ミンチメル・シャイミーエフ」の版間の差分

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| 政党=[[統一ロシア]]
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'''ミンチメル・シャリポーヴィッチ・シャイミーエフ'''('''{{Lang|rus|Минтимер Шарипович Шаймиев}}''', '''Mintimer Sharipovich Shaimiev''', [[タタール語]]:'''Mintimer Şärip ulı Şäymiev''', [[1937年]][[1月20日]] - )は、[[ロシア連邦]][[タタールスタン共和国]]の[[政治家]]。同共和国の初代[[タタールスタンの首長|大統領]]を務めた。老練な政治手腕の持ち主と評され
 
== 経歴 ==
1937年1月20日、[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]]の[[タタール自治ソビエト社会主義共和国]]アニャコヴォ村の[[コルホーズ]]議長の家庭に生まれる。[[1959年]]、カザン農業大学を卒業する。1962年、「セリホズテフニキ」地区支部に送られ、1966年、最初の国家勲章である[[レーニン勲章]]を授与された。
 
1967年、ソ連共産党タタール州委員会農業課の教官、副主任として働く。[[1969年]]、タタール共和国土地改良・水利事業大臣、[[1983年]]タタール閣僚会議第一副議長(第一副首相)、ソ連共産党タタール州委員会書記を経て、1985年、タタール閣僚会議議長([[首相]])となる。[[1989年]]にはソ連人民代議員に選出され、ソ連共産党タタール州委員会第一書記となる。り、1990年ソ連共産党中央委員。タタールスタン共和国[[最高会議]]議長。[[1991年]]6月12日、共和国大統領に選出されとなった。
 
ソ連崩壊後は1990年8月30日タタールスタン共和国[[1994年最高会議]]まで議長として主権宣言し、[[ボリス・エリツィン|エリツィン1991年]]6月12日には共和国大統領率いるロシア連邦政府と対立関係あり、全国規模で実施選出された選挙や、同年8月の[[ソ連8月クーデター]]の際は[[民投票家非常事態委員会]]ボイコット支持した。また、[[エゴール・ガイダルソ連崩壊]]や[[アナトリ後の1992年にタタ・チュバイ]]らタンを主権国家と定義する新憲法急進的経済改革や制定に関する国営化投票を行った際は約62%が賛成票対しても反対してき投じられ<ref name="tatarconstitution">{{cite web|url=http://www.tatar.ru/?DNSID=00e155d5981552f75e4d0fdddfc92952&node_id=222|archive-url=https://web.archive.org/web/20060925011839/http://www.tatar.ru/?DNSID=00e155d5981552f75e4d0fdddfc92952&node_id=222|url-status=dead|archive-date=September 25, 2006|title=Конституция Республики Татарстан : Республика Татарстан|date=September 25, 2006}}</ref>。しかし、この国民投票と憲法はロシアの裁判所にうなって違憲とされ<ref name="rAcdz">{{cite web|url=http://www.rbcdaily.ru/politics/562949990857614 |title=Заявились в Россию :: Общество :: Газета РБК |website=Rbcdaily.ru |date=2014-03-17 |accessdate=2016-12-31}}</ref>、シャイミーエフの態度タタールスタン内部分離独立を志向する急進的な民族主義を抑制しつつ[[ボリス・エリツィン|エリツィン]]大統領率いためのもので、ロシア連邦政府と丁々発止の交渉を繰り広げることで妥協を引き出していった。1994年2月15日には他のロシア連邦構成する民族共和国中、最初主体先駆けて中央政府との間に権限を区する条約を調印することができた。タタールスタンにはロシアのイスラム教徒の約48%が集中しており、連邦政府いたことタタールスタンの指導者であるシャイミーエフを無視できない事情があったともされる。
 
[[1996年]]の共和国大統領選挙では、シャイミーエフに対して対立候補者は立たず、シャイミーエフは、有効票中97%の得票率を得て当選した。[[1999年]]下院国家会議選挙では、[[エフゲニー・プリマコフ]]元首相、[[ユーリ・ルシコフ]]・[[モスクワ]]市長と政治ブロック「[[祖国・全ロシア]]」を結成し、エリツィンに挑戦したが、プーチン旋風で与党「統一」が勝利するや、「祖国・全ロシア」と「統一」を統合して新たな与党「[[統一ロシア]]」を結成し、ルシコフや[[セルゲイ・ショイグ]]とともに党最高会議共同議長(党首)に就任した<ref>[http://www.polit.ru/news/2001/12/01/567458.html ПОЛИТ.РУ \ НОВОСТИ \ Съезд центристов избрал Генеральный совет «Единства и Отечества» и призвал россиян вступать в ряды новой партии].</ref>。
 
[[2000年]][[ウラジーミル・プーチン]]が大統領に就任し、プーチンは中央集権化政策を実行するが、老練なシャイミーエフは、プーチンと正面衝突することを避け、タタールスタンが持つ特権の現状維持を図った。ロシア連邦憲法及びタタールスタン共和国憲法では、地方の大統領・知事などの三選は禁止されていたが、プーチンは、タタールスタンに特例を認め、シャイミーエフは、[[2001年]]3月のタタールスタン大統領選挙で三選した。シャイミーエフの下でタタールスタンは総合経済指標で[[モスクワ]]に次ぐ2位のロシア連邦主体となった。また、[[世界遺産]]として強引に再建を推し進めた[[カザン・クレムリン]]も完成し、シャイミーエフは絶大な支持を得て、[[2005年]]3月に四選されすることができた。
 
[[2010年]]、[[ドミートリー・メドヴェージェフ]]の大統領就任に伴い、次世代の指導者に地位を譲るとして{{仮リンク|ルスタム・ミンニハノフ|en|Rustam Minnikhanov}}をメドヴェージェフに推薦してタタールスタン大統領の職を辞し、名誉顧問に任命された。
シャイミーエフの下、タタールスタンは、ロシア連邦主体中、総合経済指標で[[モスクワ]]に次いで2位、社会発展度で[[サンクトペテルブルク]]に次いで3位、産業生産規模で上位5分の1に入っている。
 
== パーソナル ==