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ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエは、[[和協信条]]の起草者として名高いヤーコプ・アンドレーエの息子ヨーハン・アンドレーエと僧院管理人ヴァレンティン・モーザーの娘マリーアとの間に1586年8月17日ヘレンベルクに生まれた{{sfn|種村|1993|pp=298-345}}。
 
生誕の地であるヘレンベルの生活は短く、まもなくハイデンハイム近傍ケーニヒスブロンに移ることとなる。はじめ父親が校長をしていた教会学校に通ったが、病気がちで脾弱だったことから、同じ年頃の遊びの仲間入りができず、様々な本を読みながら歴史、機械工学、建築技術に熱中してゆくこととなる。1601年に父親ヨーハン・アンドレーエが早逝したことから、一家は[[ヴュルテンベルク]]第二の都市[[テュービンゲン]]に移住し、ヨハンは[[テュービンゲン大学]]に通うことになる{{sfn|種村|1993|pp=298-345}}。
 
1605年には[[リベラル・アーツ|自由七学芸]]を修めてマギステルの称号を獲得した。在学中は[[錬金術]]に傾倒し、1616年に出版された『化学の結婚』の草稿はこの時期に成立した。1606年に書いた世俗的な戯曲が発端となったスキャンダルによって大学から追放され、その後、延べ5年間に渡りヨーロッパ各国を遍歴した。1614年にファイヒンゲンの副牧師に就任し、正式に[[ルター派]]の聖職者となる{{sfn|種村|1993|pp=298-345}}。同年、アグネス・E・グリュニンガーと結婚。