「ミンチメル・シャイミーエフ」の版間の差分

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[[1996年]]の共和国大統領選挙では、シャイミーエフに対して対立候補者は立たず、シャイミーエフは、有効票中97%の得票率を得て当選した。[[1999年]]下院国家会議選挙では、[[エフゲニー・プリマコフ]]元首相、[[ユーリ・ルシコフ]]・[[モスクワ]]市長と政治ブロック「[[祖国・全ロシア]]」を結成し、エリツィンに挑戦したが、プーチン旋風で与党「統一」が勝利するや、「祖国・全ロシア」と「統一」を統合して新たな与党「[[統一ロシア]]」を結成し、ルシコフや[[セルゲイ・ショイグ]]とともに党最高会議共同議長(党首)に就任した<ref>[http://www.polit.ru/news/2001/12/01/567458.html ПОЛИТ.РУ \ НОВОСТИ \ Съезд центристов избрал Генеральный совет «Единства и Отечества» и призвал россиян вступать в ряды новой партии].</ref>。
 
[[2000年]]に[[ウラジーミル・プーチン]]が大統領に就任し、プーチンは中央集権化政策を実行するが、老練なシャイミーエフは、プーチンと正面衝突することを避け、タタールスタンが持つ特権の現状維持を図った。ロシア連邦憲法及びタタールスタン共和国憲法では、地方の大統領・知事などの三選は禁止されていたが、プーチンは、タタールスタンに特例を認め、[[2001年]]3月のタタールスタン大統領選挙で三選した。シャイミーエフの下でタタールスタンは総合経済指標で[[モスクワ]]に次ぐ2位のロシア連邦主体となった。また、[[カザン地下鉄]]の建設や[[世界遺産]]として強引に再建を推し進めた[[カザン・クレムリン]]の再建などし、シャイミーエフは絶大な支持を得て、[[2005年]]3月に四選することができた。
 
[[2010年]]、[[ドミートリー・メドヴェージェフ]]の大統領就任に伴い、次世代の指導者に地位を譲るとして{{仮リンク|ルスタム・ミンニハノフ|en|Rustam Minnikhanov}}をメドヴェージェフに推薦してタタールスタン大統領の職を辞し、名誉顧問に任命された。