「アンブローズ・ビアス」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m コラム欄→コラム
英語版「en:Ambrose Bierce」の導入部を翻訳して加筆。1866年ごろの写真を追加。
4行目:
| image = Ambrose Bierce 1892-10-07.jpg
| image_size = 210px
| caption = アンブローズ・ビアス(1892([[1892撮影]]
| birth_date = [[1842年]][[6月24日]]
| birth_place = {{USA1896}}<br />[[オハイオ州]][[メグズ郡 (オハイオ州)|メグズ郡]]ホースケイブ・クリーク
| death_date = {{disappeared date and age|1913|12|26|1842|6|24}}以降消息不明<ref name="online-literature.com">[http://www.online-literature.com/bierce/ Ambrose Bierce – Biography and Works], at [http://www.online-literature.com/ The Literature Network]</ref>
| death_place =
| death_place = {{MEX1893}}<br />[[チワワ州]][[チワワ (チワワ州)|チワワ]]?
| occupation = 作家、ジャーナリスト
| nationality = {{USA}}
| genre = 風刺
| movement = [[リアリズム]]
| notable_works =『[[悪魔の辞典]]』、『アウル・クリーク橋の一事件』
| signature = Bierce_Ambrose,_sig,_clean_and_moderately_crisp.jpg
<!--
|signature = Bierce Ambrose, sig, clean and moderately crisp.jpg
-->
}}
'''アンブローズ・ギングウィネット・ビアス'''(Ambrose({{Lang-en|'''Ambrose Gwinnett Bierce'''}}, [[1842年]][[6月24日]]<ref name=Floyd18>Floyd, p. 18.</ref> - ?)は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[作家]]、[[ジャーナリスト]]、[[コラムニスト]]である。代表的なに、風刺辞書『[[悪魔の辞典]]』(''The Devil's Dictionary'')、短編小説アウル・クリーク橋の一事件』(''An Occurrence at Owl Creek Bridge'')がある。人間の本質を冷笑をもって見据え、容赦の無い毒舌をふるったことから、「''Bitter Bierce''」(「辛辣なビアス (Bitter Bierce) と渾名された。
 
== 概要 ==
'''アンブローズ・ギンネット・ビアス'''(Ambrose Gwinnett Bierce, [[1842年]][[6月24日]]<ref name=Floyd18>Floyd, p. 18.</ref> - ?)は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[作家]]、[[ジャーナリスト]]、[[コラムニスト]]。代表的な著作に、風刺辞書『[[悪魔の辞典]]』、短編小説「アウル・クリーク橋の一事件」がある。人間の本質を冷笑をもって見据え、容赦ない毒舌をふるったことから、「辛辣なビアス (Bitter Bierce) 」と渾名された。
『悪魔の辞典』は、アメリカ独立200周年記念政権により、「アメリカ文学史上最も偉大な100作品の内の1つ」に選ばれ<ref>"[http://www.leatherboundtreasure.com/american_literature.html Franklin Library 100 Greatest Masterpieces of American Literature 1976–1984]", Leather Bound Treasure.</ref>、『アウル・クリーク橋の一事件』は「アメリカ文学史上最も有名であり、且つ頻繁に選集が書かれた物語の1つである」と評価され<ref>"An Occurrence at Owl Creek Bridge: Ambrose Bierce." ''Short Story Criticism'', v. 72, Joseph Palmisano, ed. Farmington Hills, MI: Thomson Gale, 2004, p. 2.</ref>、『グロリア・クラブ』('''The Grolier Club''')は、『''Tales of Soldiers and Civilians''』(『兵士たちと非戦闘員の物語』, 『''In the Midst of Life''』〈『人生の真っ只中で』〉という題名でも出版された)を、「1900年以前にアメリカで出版された本の中で最も影響力を持つ一冊」に選んだ<ref>Adams, Frederick B.; Winterich, John T.; Johnson, Thomas H.; and McKay, George L. ''One Hundred Influential American Books Printed Before 1900: Catalogue and Addresses''. New York: The Grolier Club, 1947, p. 124.</ref>。多作で多彩な作家でもあったビアスは、アメリカ合衆国において最も影響力のあるジャーナリストの1人と見なされ<ref>Mundt, Whitney R., "Ambrose Bierce" in ''Dictionary of Literary Biography'' v. 23: ''American Newspaper Journalists, 1873–1900'', Ashley, Perry J., ed., Detroit: Gale Research, 1983, p. 25. See also Bierce, Ambrose, ''Skepticism and Dissent: Selected Journalism from 1898–1901'', Lawrence I. Berkove, ed., Ann Arbor: Delmas, 1980; Lindley, Daniel, ''Ambrose Bierce Takes on the Railroad: The Journalist as Muckraker and Cynic'', Westport, CT: Praeger, 1999; Ramirez, Salvador A.,''A Clash of Titans: Ambrose Bierce, Collis Huntington and the 1896 Fight to Refund the Central Pacific's Debt to the Federal Government'', San Luis Rey, Calif: Tentacled Press, 2010; Drabelle, Dennis, ''The Great American Railroad War: How Ambrose Bierce and Frank Norris Took on the Notorious Central Pacific Railroad'', New York: St. Martin's, 2012; West, Richard Samuel, ''The San Francisco Wasp: An Illustrated History'', Northampton, MA: Periodyssey Press, 2004, pp. 45–59, 310–11.</ref>、現実主義に則った小説作品の草分け的な存在と見られている<ref>Grenander, M.E., "Ambrose Bierce" in ''Dictionary of Literary Biography'' v. 12: ''American Realists and Naturalists'', [[Donald Pizer|Pizer, Donald]] and Harbert, Earl N., eds., Detroit: Gale Research, 1982, pp. 23–36.</ref>。マイケル・ディルダ('''Michael Dirda''')は、ビアスによるホラー小説について、[[エドガー・アラン・ポー]]('''Edgar Allan Poe''')、[[ハワード・フィリップス・ラヴクラフト]]('''H. P. Lovecraft''')の作品と同格に扱った<ref>[[Michael Dirda|Dirda, Michael]], "Thirteen for Halloween", ''The American Scholar'', Oct. 28, 2015.</ref>。S・T・ジョッシ('''S. T. Joshi''')は、ビアスについて「アメリカ史上最も偉大な風刺作家である可能性がある」「[[ユウェナリス]]('''Juvenalis''')、[[ジョナサン・スウィフト]]('''Jonathan Swift''')、[[ヴォルテール]]('''Voltaire''')に取って代われるだろう」と考えている<ref>[https://loa-shared.s3.amazonaws.com/static/pdf/LOA_Joshi_on_Bierce.pdf Kelley, Rich. ″The Library of America interviews S. T. Joshi about Ambrose Bierce″.] ‘’The Library of America’’. September 2011.</ref>。ビアスによる戦争の物語は[[スティーヴン・クレイン]]('''Stephen Crane''')や[[アーネスト・ヘミングウェイ]]('''Ernest Hemingway''')にも影響を与え<ref>[[S. T. Joshi|Joshi, S. T.]] in Kelley, Rich, "The Library of America interviews S. T. Joshi about Ambrose Bierce," ''The Library of America e-Newsletter'', Sept. 2011.</ref>、ビアスは有力な作家であり、畏怖される文芸批評家と考えられている<ref>Grenander, M.E., "Ambrose Bierce" in ''Dictionary of Literary Biography'' v. 71: ''American Literary Critics and Scholars, 1880–1900'', Rathbun, John W. and Grecu, Monica M., eds., Detroit: Gale Research, 1988, pp. 27–37.</ref>。また、寓話作品と[[詩]]も重要と見做されている<ref>Joshi, S.T., "Introduction," ''The Collected Fables of Ambrose Bierce'', Columbus, OH: Ohio State University Press, 2000, p. xxi.</ref><ref>Grenander, M.E., "Introduction" to ''Poems of Ambrose Bierce'', Lincoln and London: University of Nebraska Press, 1995, p. xiii.</ref>。
 
[[1913年]]12月に消息を絶った。
 
== 生い立ち ==
[[File:Abierce.jpg|thumb|アンブローズ・ビアス(1866年ごろ)]]
マーカス・オーレリアス・ビアス(1799年 - 1876年)とその妻ローラ・シャーウッド・ビアスの子として、[[オハイオ州]][[メグズ郡 (オハイオ州)|メグズ郡]]ホースケイブ・クリークに生まれる<ref name="Floyd18" />。母親は17世紀のプリマス総督[[ウィリアム・ブラッドフォード]]の末裔にあたる。両親は貧しくも文学的素養があり、ビアスに読書と書き物への深い愛着を育んだ<ref name="Floyd18" />。幼年期を[[インディアナ州]][[カズヤスコ郡 (インディアナ州)|カズヤスコ郡]]で過ごし、郡庁所在地[[ワルショウ (インディアナ州)|ワルショウ]]のハイスクールに通った。
 
39 ⟶ 42行目:
もっとも、ビアス自身は数多くの女性と交友しており、たとえば同業のジャーナリストである[[ブランシュ・パーティントン]]とは、恋愛感情の有無は別としても<ref>''Selected Letters'', p. 26.</ref>、生涯交流を持ち続けており、また聾唖の詩人リリー・ウォルシュに対しては自宅の一角に住居を提供していた<ref name="joshi_xviii">Joshi, "Introduction" in ''Selected Letters'', p. xviii.</ref>。敵対者も多かったが、同時に信奉者も多く、ビアス自身もまた[[W・C・モロー]]、[[アドルフ・ド・カストロ]]、[[ジョージ・スターリング]]など、若い世代の面倒をよく見ている<ref name="joshi_xviii" />。
 
また、生涯にわたって、[[気管支喘息|喘息]]<ref name="Floyd19" /><ref name="Floyd20">Floyd, p. 20</ref>や戦傷による後遺症に悩まされ続けた<ref name="online-literature.com" />。特に喘息の症状は年を追うごとに悪化し、晩年にメキシコに行かなかったという説の一つの論拠となっている<ref name="nickell">Nickell, ''Ambrose Bierce Is Missing''.</ref>。
 
== ジャーナリズム ==
46 ⟶ 49行目:
1872年から1875年にかけてはイギリスで執筆活動を行い、『ファン』誌に寄稿した。ビアスの初の著書『魔物の愉悦』は、それまでに書いた記事をまとめるという形で、[[ジョン・キャムデン・ホットン]]を出版者とし、「ドッド・グリル」名義で、1873年にロンドンで出版された<ref>''Selected Letters'', p. 8.</ref><ref>Morris, ''Alone in Bad Company'', p. 143.</ref>。
 
その後アメリカに戻ると、ふたたびサンフランシスコに居を構える。1879年から1880年にかけ、[[ニューヨーク]]の採掘会社の現地支配人として、当時[[ダコタ準州]]であった[[サウスダコタ州]]のロックビルやデッドウッドに赴いたが、会社の経営が行き詰るとサンフランシスコにもどって執筆業に復帰した。
 
1887年、[[ウィリアム・ランドルフ・ハースト]]が経営に着手した新聞『[[サンフランシスコ・エグザミナー]]』の初期の連載コラムニストの一人として『プラットル』というコラムを担当し<ref name="Floyd18" />、やがて、西海岸でもっとも強い影響力をもつライターに数えられるようになった。[[ハースト・コーポレーション|ハースト・ニュースペーパーズ]]との関係は1908年まで続いた。
 
=== 大陸横断鉄道をめぐる政府融資 ===
[[ユニオン・パシフィック鉄道]]と[[セントラル・パシフィック鉄道]]は、[[最初の大陸横断鉄道]]を敷設するにあたり、合衆国政府から多額の融資を受けていた。貸付条件はゆるいものだったが、しかし[[コリス・ハンティントン]]は合衆国議会内の仲間に働きかけ、両社あわせて7千5百万ドルの債務を免ずる法律を成立させようとした。
 
1896年、ハーストはこの試みを挫くべく、[[ワシントンD.C.]]にビアスを派遣した。この企みの真意は秘匿されており、鉄道社側は、大衆のあずかり知らぬうちに法律を成立させようと期していた。激怒したハンティントンは、議事堂前のステップでビアスに出くわすと、いくら欲しいのかとなじった。これに対するビアスの回答は、全米の新聞に掲載された<ref name="morris226">Morris, ''Alone In Bad Company'', p. 226.</ref>。
60 ⟶ 63行目:
 
=== マッキンリー大統領暗殺事件 ===
ビアスは世間に対する容赦のない毒舌や風刺を強く好んだため、新聞記者としてのその長いキャリアにおいて、しばしば論争を生じさせる惹き起とも少なくなかった。実際、ビアスのコラムの中には非難の嵐を巻き起こしてハーストの立場を危うくしたものもある。一つを挙げると、1900年にビアスが書いた風刺詩が、1901年の[[マッキンリー大統領暗殺事件]]後にハーストの政敵たちによって問題とされ、世間の注目を集めた事件がある。
 
ケンタッキー州知事への就任を控えていた[[ウィリアム・ゴーベル]]の暗殺事件に際してビアスが書いたこの詩は、世間が感じている恐怖感を表現しようとしたものだったが、翌年にマッキンリーが暗殺されると、次に挙げる部分が事件を事前に知っていたと読むことができたのである。
78 ⟶ 81行目:
}}
 
ハーストと対立関係にあった新聞社や当時の[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]][[エリフ・ルート]]は、ハーストがマッキンリーの暗殺を事前に知っていたものとして責任を追及した。沸騰する世論の中でハーストは大統領職への野心に終止符を打たれ、[[ボヘミアンクラブ]]からも除名されたが、問題の風刺詩の作者がビアスであることを明かすこともなければ、ビアスを解雇することもなかった<ref>Morris, ''Alone in Bad Company'', p. 237.</ref>。
 
== 著作 ==
90 ⟶ 93行目:
1913年10月、71歳のビアスは[[ワシントンD.C.]]を発ち、かつて関わった[[南北戦争]]の旧戦場をめぐる旅に出た。12月までの間に[[ルイジアナ州|ルイジアナ]]、[[テキサス州|テキサス]]を通過。[[エルパソ (テキサス州)|エルパソ]]を抜け、当時[[メキシコ革命]]のために混乱状態にあった[[メキシコ]]に入国した。[[シウダー・フアレス]]で[[パンチョ・ビリャ]]軍にオブザーバーとして加入し、その立場で[[ティエラ・ビアンカ]]の戦いを取材した。
 
[[チワワ州]][[チワワ (チワワ州)|チワワ]]まではビリャ軍と行動をともにしていたことが知られている。この街から古馴染みの[[ブランシュ・パーティントン]]に[[1913年]][[12月26日]]付で宛てた「私自身もまた、「''As to me, I leave here tomorrow for an unknown destination.''」(「明日ここを去ればり、その先どこに向かうかは、私自身にもわからない」<ref>''Selected Letters'', pp. 244+.</ref>と記した手紙を最後に消息を絶った。
 
ビアスの失踪はアメリカ文学史上もっとも有名な失踪事件のひとつとなった。その行方を探る試みは何度も行われたが、彼が発見されことはなく、い。行き止まりの洞窟に入って二度と出てなかった<ref>説([[大長編ドラえもん]]『[[ドラえもん のび太の日本誕生|のび太の日本誕生]]』65ページでこのことに触れている。また、同作者の『[[T・Pぼん]]』「超空間の漂流者」では、洞穴で時間の渦に巻き込まれ、遥か未来まで漂着してしまったことになっている。</ref>、戦場で横死した、チワワ州シエラ・モハダで銃殺刑に処された<ref>[http://donswaim.com/bierce-lienert.html The Ambrose Bierce Site]</ref>、そもそもビアスがメキシコに行ったいうを示す確かな証拠はなが無<ref name="nickell" />、と、諸説さまざまであるな説が唱えられた
 
== 評価 ==
伝記作家リチャード・オコナーは戦争体験によってビアスの魂には吼えたける悪魔がすみついたと論じた。「戦争が、一人の人間としての、一人の作家としてのビアスを作り上げた。その恐ろしい体験こそが、首のない血みどろの死体や、猪に食い荒らされたなきがらを、戦いの場から紙の上に移動させることを可能にしたのである」と論じた<ref name="Floyd18" />。
 
エッセイストであるクリフトン・ファディマンはこう記した。「ビアスは決して偉大な書き手ではなかった。その不見識と想像力の貧困さは痛ましいほどである。だが……そのスタイルは、ビアスの名を後世に残すひとつの要素だろう。そしてその厭世観の混じりけのなさもまた、ビアスが生き続ける一因となるに違いない」<ref name="Floyd18"/>。
103 ⟶ 106行目:
日本における初期の紹介者である[[芥川龍之介]]もまた、ビアスの短編小説を高く評価した。「短編小説を組み立てさせれば、彼程鋭い技巧家は少い。評家がポオの再来と云ふのは、確にこの点でも当たつてゐる」<ref>芥川龍之介『点心』</ref>。
 
『悪魔の辞典』を完書も出ている[[筒井康隆]]は、『短編小説講義』(岩波書店1990)で、『いのちの半ばで』の「アウル・クリーク橋の一事件」を除く収録作を「いささかレベルの低い作品ばかり」「あきらかに駄作と思われる作品もある」とし、「作家として二流であった」(才能の本領はジャーナリストであったという意味で)とまで書いているが、一方で「アウル・クリーク橋の一事件」については「これ一作で充分ではないか」「短編小説の傑作というものは本来アンブロウズ・ビアスほどの才能ある人物でさえ(中略)稀にしか出現しないのではないか」と高評価を与えている。
 
== 後世への影響 ==