「ルイ11世 (フランス王)」の版間の差分

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[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]と[[ヴァロワ=アンジュー家]]の[[マリー・ダンジュー]]との子として、[[ブールジュ]]に生まれる。その敵たちには忌み嫌われて、「遍在する蜘蛛」(l'universelle araigne)という奇妙なあだ名を付けられていた。良く言えば用心深く、悪く言えば陰険。至るところに網を張って、引っかかった獲物は食べてしまう。その陰謀は父シャルルへも発揮され、1439年と1448年には父王の退位を謀ったが失敗した<ref>{{Cite book|和書|author=ジュール・ミシュレ|year=2017|title=フランス史【中世】Ⅴ|publisher=論創社|pages=P.329}}</ref>。[[1436年]]に[[スコットランド王]][[ジェームズ1世 (スコットランド王)|ジェームズ1世]]の娘[[マーガレット・ステュアート|マーガレット]]と結婚し、この結婚により[[グレートブリテン島|ブリテン島]]の政治に関心を持つ。大陸での強敵[[ブルゴーニュ公国]]が[[薔薇戦争]]では[[ヨーク朝|ヨーク家]]を支持していたため、対抗措置として[[ランカスター朝|ランカスター家]]出身の王[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]を復帰させるべく策動した。マーガレットは王に顧みられなかったため、詩作に短い生涯を捧げた。彼女の死後[[1451年]]に、ルイは8歳の[[シャルロット・ド・サヴォワ]]と政略結婚を行う。
 
[[1461年]]の即位以来ルイは、近隣の大諸侯の権力を減殺するのに余念がなかった。[[1462年]]にはアラゴン王[[フアン2世 (アラゴン王)|フアン2世]]から[[ルシヨン]][[セルダーニュ]]が割譲された<ref>{{Cite book|和書|author=J・ミシュレ|year=2017|title=フランス史【中世】VI|publisher=論創社|pages=P.30}}</ref>。[[ブルゴーニュ公一覧|ブルゴーニュ公]][[シャルル (ブルゴーニュ公)|シャルル]]を相手に1467年から1477年までの10年間は、権謀術数の限りをつくして戦った。敵地に軍隊を連れずに乗りこみ、ペロンヌ城で勇胆公シャルルと和議を進めながら、公の支配下にある[[リエージュ]]に反乱を起こさせようとして失敗し、かえってシャルルの捕虜になったこともある。ブルゴーニュ公の家臣であったが、ルイ11世に敬服し、後に彼の腹心となった年代記作者フィリップ・ド・コミーヌは、この間のルイの行動について冷静で率直な説明を提供している。<ref>{{Cite book|和書|author=ホイジンガ|year=1967|title=世界の名著55 中世の秋|publisher=中央公論社|pages=P.348}}</ref>
 
ブルゴーニュが中心となった〈公益同盟〉とは3度戦闘を行い、そのたびに王軍は圧倒されたにもかかわらず、スイス軍と同盟して[[グランソンの戦い|グランソン]]とモラで勝利を収める。1477年に[[ナンシーの戦い]]で勇胆公シャルルが戦死した後、1482年のアラス条約で[[ブルゴーニュ公国|ブルゴーニュ]]の大半を獲得し、さらに[[アンジュー]]、[[メーヌ]]、[[プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏|プロヴァンス]]などを併せて、フランス王国の支配基盤を定めた。[[1472年]]に[[教皇]][[ピウス2世 (ローマ教皇)|ピウス2世]]とアンボワーズの協約を締結したことにより、フランス国王に国内の[[聖職禄]]授与の権利が認められ、その後の[[ガリカニスム]]発展のきっかけとなる。