「オレグ・ソスコヴェツ」の版間の差分

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|内閣2 = [[セルゲイ・テレシチェンコ]]内閣
|就任日2 = [[1992年]][[5月]]
|退任日2 = [[1992年]][[9月]]
|元首職2 = [[カザフスタンの大統領|カザフスタン共和国大統領]]
|元首2 = [[ヌルスルタン・ナザルバエフ]]
|国旗3 = USSR
|職名3 = [[ソビエト邦]][[ソビエト連邦冶金工業省|冶金工業相]]
|内閣3 = [[ヴァレンチン・パヴロフ]]内閣
|就任日3 = [[1991年]][[4月10日]]
|退任日3 = [[1991年]][[11月26日]]
|元首職3 = [[ソビエト大統領]]
|元首3 = [[ミハイル・ゴルバチョフ]]
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== 経歴・概要 ==
1949年[[ソビエト連邦]][[カザフ・ソビエト社会主義共和国]]のタルディ=クルガン州タルドクルガン市(現在の[[アルマトイ州]][[タルディコルガン]])に生まれる。[[1971年]]冶金工学に関する高等専門教育を修めたあと、[[テミルタウ]]市のカラガンダ冶金工業コンビナートに勤務する。翌[[1972年]]に[[ソビエト連邦共産党|ソ連共産党]]に入党する。コンビナートの管理者として順調に昇進し、[[1987年]]支配人を経て、[[1988年]]カラガンダ冶金工業コンビナート総支配人となる。
 
[[1989年]]ソ連[[人民代議員大会|人民代議員]]に選出され、連邦会議(連邦院)計画・財政委員会に所属した。[[1991年]]ソ連冶金工業相に就任する。[[ソ連崩壊]]後は、[[1992年]]1月冶金工業省の廃止に伴い、[[ロスチェルメト]]''Росчермет''社社長に就任する。
 
[[1992年]][[カザフスタン]]共和国第一副首相・工業相となり、同年9月、カザフスタン産業家・企業家同盟総裁を経て、10月ロシア連邦金属委員会議長に就任する。[[1993年]][[5月4日]]ロシア連邦政府第一副首相に就任する。第一副首相として燃料エネルギー、運輸、通信、保健、製薬業界、原子力の各部門を担当した。また、連邦政府政策効果委員会議長をはじめ、20の政府委員会の長も兼ねた。ソスコヴェツは、旧[[ノーメンクラトゥーラ]]出身の産業実務家として、[[エゴール・ガイダル]]らの主導によるショック療法に対して当然批判的であり、また、穏健な経済改革を主張していた[[ヴィクトル・チェルノムイルジン]]首相ともその路線は異なっていた。しかし、ソスコヴェツはエリツィン政権内で実力者として台頭してきた[[アレクサンドル・コルジャコフ]]大統領警護局長ら強硬派の支持を得、同年[[7月16日]]には[[ウラジーミル・シュメイコ]]に代わりロシア連邦政府工業政策評議会議長に就任する。こうしてチェルノムイルジン内閣でナンバー2を占めることとなったソスコヴェツは、[[1995年]]5月に大統領与党として「[[我が家ロシア]]」が結成されると、副代表(評議会副議長)にも選出された。
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しかし、[[1996年ロシア大統領選挙]]に関して、選挙の延期を主張したため、これに反対したエリツィンの次女で大統領補佐官の[[タチアナ・ディアチェンコ]]や選挙対策本部長の[[アナトリー・チュバイス]]と対立し、第1回投票直後の[[6月20日]]に選挙延期を主唱したコルジャコフや[[ミハイル・バルスコフ]][[ロシア連邦保安庁|連邦保安庁]](FSB)長官らとともに共々突然解任され失脚した。
 
[[2009年]]からロシア金融産業グループ協会会長。[[2011年]][[ロシア工学アカデミー]]副総裁<ref>[http://www.slaviza.ru/rossiyskaya_inzhenernaya_akademiya.html Список вице-президентов Российской инженерной академии]</ref>。また、同年にロシア製造業者同盟総裁にも就任した
また、同年にロシア製造業者同盟総裁にも就任した。
 
== 脚注 ==