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|publisher = [[鹿児島県]]
}}</ref>。これは、半次郎が小松清廉に嘆願して実現したことだったという<ref>『少年読本第十一編 桐野利秋』51-55頁</ref>。『会津藩庁記録』には「薩州中村半十郎と申す者、かの濃州金原辺に天狗党の居り候頃、武田と藤田小四郎に面会致し談判候よし」とあり、天狗党の首領である[[武田耕雲斎]]と[[藤田小四郎]]に面会したとされる。
 
[[慶応]]元年([[1865年]])3月3日、土佐脱藩の[[土方久元]]『回天実記』に「中村半次郎、訪。この人真に正論家。討幕之義を唱る事最烈なり」と見える。
 
[[慶応]]2年([[1866年]])2月、[[長府藩]]士・[[三吉慎蔵]]は、[[寺田屋事件]]後、薩摩藩邸で静養する[[坂本龍馬]]を毎日のように見舞った主要薩摩藩士の一人として、半次郎の名を挙げている<ref>[http://ja.wikisource.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E9%A6%AC%E9%96%A2%E4%BF%82%E6%96%87%E6%9B%B8/%E4%B8%89%E5%90%89%E6%85%8E%E8%94%B5%E6%97%A5%E8%A8%98 坂本龍馬関係文書/三吉慎蔵日記]</ref>。同年4月、京都の薩摩藩邸を訪れた[[河田小龍]]は、[[近藤長次郎]]が死去した事情を、半次郎から聞いた<ref>[http://ja.wikisource.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E9%A6%AC%E9%96%A2%E4%BF%82%E6%96%87%E6%9B%B8/%E8%97%A4%E9%99%B0%E7%95%A5%E8%A9%B1 坂本龍馬関係文書/藤陰略話]</ref>。
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[[image:Kirino toshiaki.jpg|thumb|200px|「鹿児島英名競:桐野利秋」]]
* 『[[西南記伝]]』四番大隊将士伝に桐野利秋を評して「利秋、天資英邁(えいまい)、気宇宏闊(こうかつ)、其人を待つや、憶を開き、胆を露はし、毫も畛域(しんいき)を設けず、然れども志気一発、眉を揚げ気を吐くに当たりては、その概、猛将勇卒と雖ども仰ぎ視ること能はざるものありしと云ふ」という。
 
* 西郷隆盛は「彼をして学問の造詣あらしめば、到底吾人の及ぶ所に非ず」と評している。
 
* 桐野は、慶応3年(1867年)の在京中のことを記した『京在日記』(日記は桐野の妹の子孫・伊東家に伝えられていたが、『京在日記』の命名が本人によるものかどうかは不明)を残している。今これを見ると、達筆とは言えないが、雄勁な筆運びで、勇武な気性がよくあらわれている。他に複数の自筆書簡も現存している。桐野は禄5石という貧窮の家で育ったが故に農民同様の生活を送り、系統的な学問をせず、剣術も[[小示現流]]の伊集院鴨居門下{{refnest|『[[西南記伝]]』<ref group="注釈">ただし誤って[[古示現流]]としている。</ref>}} あるいは[[薬丸自顕流]]の[[薬丸兼義]]([[江夏仲左衛門]]とも)門下<ref group="注釈">鹿児島の伝承による。桐野の妹の子息の友人であった『少年読本第十一編 桐野利秋』の著者・[[春山育次郎]]は、初め伊集院鴨居から小示現流を学び、のちに薬丸自顕流の技を習ったとする。</ref> というが、多くは独力で修得し、達人の域に至った。無学文盲というのは誤りである。日記中の記述(上手とは言えないが、和歌さえつくっている)を見る限り、読み書きに充分な教養があったことは確かである(読み書きは主に外祖父・別府四郎兵衛から教わった)。ただ当時の武士の教養であった漢文への造詣が深くはなく、自ら謙遜して文盲と唱えていた。西郷の評語が「学問あらしめば」ではなく、「学問の造詣あらしめば」となっていることを吟味すべきであろう(この場合の学問は[[四書五経]]を意味している)。
 
* 西南戦争60年会編『西南役側面史』(1939)に記載する桐野の屍体検査書に「衣服 績縞上着縮緬襦袢。創所 左大腿内面筋骨銃創、右脛骨刀創、左中指旧切痕、下腹部より腰部貫通銃創、前頭より顳顬部貫通銃創、左前頭より傾頂部に刀創、左中指端傷」と記され、更に「陰嚢肥腫」とあるので、桐野は西郷と同じく[[フィラリア]]を病んでいたと考えられる。
* [[市来四郎]]の『丁丑擾乱記』には、「世人、これ(桐野)を武断の人というといえども、その深きを知らざるなり。六年の冬掛冠帰省の後は、居常国事の救うべからざるを憂嘆し、皇威不墜の策を講じ、国民をして文明の域に立たしめんことを主張し、速に立憲の政体に改革し、民権を拡張せんことを希望する最も切なり」とある。また同書には、「桐野は廉潔剛胆百折不撓の人というべし。最も慈悲心あり。文識はなはだ乏し。自ら文盲を唱う。しかりといえども実務上すこぶる思慮深遠、有識者に勝れり」ともある。
 
== 評価 ==
* 後年、[[勝海舟]]は「(西郷の)部下にも、桐野とか村田とかいうのは、なかなか俊才であった」(『氷川清話』)、[[大隈重信]]は「西南の役に大西郷に次いでの薩摩の驍将桐野利秋、彼はすこぶる才幹の男であったが、これがやはり派手であった。身体も大きくて立派なら容貌態度ともに優れた男であったが、着物をぶざまに着るようなまねはせず、それも汚れ目の見えぬきれいな物づくめであった」(『早稲田清話』)と評している。
* [[西郷隆盛]] 「彼をして学問の造詣あらしめば到底吾人の及ぶ所に非ず」と評している。
 
*[[勝海舟]] 「桐野とか、村田とかいふのは、なかなか俊才であった」」<ref>『氷川清話』</ref>
*桐野の友人だった中井弘は、幕末から明治初年にかけて、藩内で排斥されていたところを桐野の尽力で助けられ、後年、「彼はよくいわれるような粗暴な男ではなかった。藩外の脱藩者ともつきあって、世情に通じ、兵隊連中の中では珍しいほどの趣味人だった」と賞賛していた<ref>『少年読本第十一編 桐野利秋』152-161頁</ref>。
 
* 後年、[[勝海舟]]は「(西郷の)部下にも、桐野とか村田とかいうのは、なかなか俊才であった」(『氷川清話』)、[[大隈重信]] 西南の役に大西郷に次いでの薩摩の驍将桐野利秋彼はすこぶる才幹の男であったこれやは矢張り派手であった。身体も大きくて立派なら容貌態度ともに優れた男であったが、着物をぶざま無様に着るようまね真似はせず、それも汚れ目の見えぬきれい綺麗な物づくめであった」」<ref>『早稲田清話』)と評している。</ref>
*遠縁にあたる肝付兼行は、次のように語っている。「実に磊落な、淡泊な性質の人で、何人に対しても、障壁を設けることをしなかった。上下・貴賤の差別なしに、誰が来ても、同じ部屋へ通して、遠慮なしに話をするのが常だった。(中略)桐野は暴れ者を御するのが得意で、他の者では、どうにもならない者も、桐野は巧みに扱って、不平を起させないようにする。その点では、誰も及ぶ者がなかったようである。(中略)桐野はよく、『おれはワシントンをやるのだから、どんな暴れ者でも、扱わなくてはならぬ』と口癖のようにいった」<ref>『日本及日本人』明治43年9月増刊号・肝付兼行談『暴れ者統御の名人』</ref>
 
* 西南戦争60年会編『西南役側面史』(1939)に記載する桐野の屍体検査書に「衣服 績縞上着縮緬襦袢。創所 左大腿内面筋骨銃創、右脛骨刀創、左中指旧切痕、下腹部より腰部貫通銃創、前頭より顳顬部貫通銃創、左前頭より傾頂部に刀創、左中指端傷」と記され、更に「陰嚢肥腫」とあるので、桐野は西郷と同じく[[フィラリア]]を病んでいたと考えられる。
*[[土方久元]] 「この人真に正論家。討幕之義を唱る事最烈なり」<ref>『回天実記』</ref>
 
*[[有馬藤太]] 「桐野はヨク女にホレられた」
 
*[[高島鞆之助]] 「桐野利秋と云ふ男は、全然まるで竹を割つた様な正直な剥出しな性格ぢやつた。万事斯うした男らしい潔白で豪放ぢや、だから一度桐野と交際すると、面白くつて復た付合はずに居られん。何とも云へぬさつぱりした、快濶な男で、あゝ云ふのが本当の武人風と言うのぢゃらうな。今ぢぁ一寸あんな男らしい男は見当たらんよ」<ref>『日本人及日本 南洲号』</ref>
 
*[[富田通信]]
**「真に功に驕らす謙遜なる人」<ref>『史談会速記録』</ref>
**「同人ハ至て勇猛にして敵ならば鬼をも挫しく勢いありて、又至て愛情深き人でありました」<ref>『史談会速記録』</ref>
 
*[[大迫尚敏]] 「桐野は学問はなかつたが、殆んど戦術の天才で、大断勇決の飛将軍」<ref>『日本人及日本 南洲号』</ref>
 
*[[中井弘]]
**「世人は動ややもすれば、桐野を目して、篠原と一対いっしょに西郷の股肱のやうに思ふのは、大間違いだ。桐野は、西郷の乾分でもなければ、西郷は桐野の親分でもない。桐野は、只一個の棟梁株なのだ」
*桐野の友人だった中井弘は、幕末から明治初年にかけて、藩内で排斥されていたところを桐野の尽力で助けられ、後年、*「彼はよくいわれるような粗暴な男ではなかった。藩外の脱藩者ともつきあって、世情に通じ、兵隊連中の中では珍しいほどの趣味人だった」と賞賛していた<ref>『少年読本第十一編 桐野利秋』152-161頁</ref>
 
*遠縁にあたる[[肝付兼行は、次のように語っている。]] 「実に磊落な、淡泊な性質の人で、何人に対しても、障壁を設けることをしなかった。上下・貴賤の差別なしに、誰が来ても、同じ部屋へ通して、遠慮なしに話をするのが常だった。(中略)桐野は暴れ者を御するのが得意で、他の者では、どうにもならない者も、桐野は巧みに扱って、不平を起させないようにする。その点では、誰も及ぶ者がなかったようである。(中略)桐野はよく、『おれはワシントンをやるのだから、どんな暴れ者でも、扱わなくてはならぬ』と口癖のようにいった」<ref>『日本及日本人』明治43年9月増刊号・肝付兼行談『暴れ者統御の名人』</ref>
 
*[[市来四郎]]
**「桐野は廉潔豪胆百折不撓の人と謂うべし。最も仁慈心あり、文識甚だ乏し、自ら文盲を唱ふ」「丁丑擾乱記」
**「桐野は廉潔実直勇豪仁慈の人と謂うべし。困難を甘んじ名利を顧みず、義に走る速かにして、人に遇する愛憎なく、金銭を見ること土芥の如く、貧に与え窮に恵み、酒食を好まず、奸黠狡猾なるを見ては、隠言なく面積罵詈甚だしきに至る。食言なく、一度約するときは終身忘れざるが如し。人の小疵を咎めず、内外親疎なく交一つの如し。食客多く、常に文盲不才を嘆じ、識者を重んじ、説を聞くを喜ぶ。英豪仁慈の人と云うべし」
**「実務上頗る深謀遠慮、有識者に勝れり、世人之を武断の人と謂うと雖いえども其の深きを知らざるなり」
 
== 逸話 ==