「更科源蔵」の版間の差分

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==経歴==
[[北海道]][[川上郡]][[弟子屈町]]にて、[[新潟県]]からの[[開拓]][[農民]]の家に生まれる。役場までの道が雪で閉ざされていたため出生届の提出が遅れ、[[2月15日]]生まれとされた<ref name="bungaku">大塚英良『文学者掃苔録図書館』([[原書房]]、2015年)106頁</ref>。東京の[[麻布大学|麻布獣医畜産学校]]を中退し、帰郷する<ref>http://mytown.asahi.com/hokkaido/news.php?k_id=01000961108190001『北海道歴史人物事典』(北海道新聞社、1993年、P171)</ref>、帰郷する。詩誌『リリー』『潮霧』などを刊行、[[高村光太郎]]、[[尾崎喜八]]らに私淑し、詩作を始める。[[1925年]]に「抒情詩」の尾崎喜八選に入選したのをきっかけに、[[真壁仁]]、[[伊藤整]]らと交流を始める。[[1927年]]、『港街』創刊。[[1930年]]開拓農民とアイヌの現実を描いた詩集『種薯』を刊行。1929年から31年にかけて地元で[[代用教員]]となるが解雇され、[[札幌市]]に移り様々な職を転々としながら詩作とアイヌ文化研究を進める。
 
戦後もアイヌ文化研究家、詩人として活動。[[1946年]]、詩誌「野性」創刊。[[1951年]]、[[北海道文化賞]]を受賞。[[1966年]]、[[北海学園大学]]教授。[[1967年]]『アイヌの伝統音楽』で[[NHK放送文化賞]]を受賞。[[北海道立文学館]]には開設から携わり、初代理事長を務めた。1985年9月25日、[[脳梗塞]]のため[[札幌厚生病院]]で死去。戒名は詠心院秋雲良源居士<ref name="bungaku"/>。