「メフメト3世」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
53行目:
 
=== ジェラーリーの反乱 ===
[[ハプスブルク家]]とハンガリーを巡って戦争してる頃、足下の[[アナトリア]]や[[シリア]]では、反乱が相次いでいた。その反乱者はジェラーリーといった。彼らは財政難に陥った中央政府によって封土を没収されたスィパーヒーやワクフの減少によって貧困化した[[マドラサ]]の学生、そして土地を没収された[[農民]]や[[遊牧民]]らであった。その反乱の第一波は1596年に始まる。ジェラーリーらは下級軍人の[[カラ・ヤズジュ]]の反乱に合流をした。1600年にカラ・ヤズジュは[[スルタン]]であると宣言した。オスマン側はハンガリー戦線に忙殺され、その討伐に十分な兵力を割けない事態になった。カラ・ヤズジュは1601年に[[ソコルル・メフメト・パシャ]]の息子でバグダードの知事のソコルルザーデ・ハサン・パシャに敗れたが、カラ・ヤズジュの兄の[[デリ・ハサン]]が翌年にソコルルザーデ・ハサン・パシャを打ち取った。1602年にカラ・ヤズジュは死ぬがデリ・ハサンが跡を継いだ。また、他の地方でも、[[ウズン・ハリルの乱]]、[[カレンデルオールの乱]]、[[ジャンポラントの乱]]などが起きた。ジェラーリーの反乱において、騎馬で機動力のある[[山賊]]の集団が各地で村や町を襲ったため、[[オスマン帝国]]の台帳にあったはずの[[村]]までが消える事態にまでなった。これにより、所領の村から徴税で生計を立てていた在郷騎士たちが、生活できなくなり、彼ら自身もジェラーリーになるという負の連鎖が存在した。さらには、カラ・ヤズジュ討伐にあたってたはずのカラマン州軍政官も待遇への不満から反乱軍に加わった。
 
[[ジャンポラントの乱]]を起こしたジャンポラント(アラブ名ジュンブラード)は、オスマン王家による支配を不正であると捉えて、自分がそれにとって変わろうとした。ジャンポラントはもともと[[シリア]]との国境に近いキリス地方の支配者であったが、勢力がシリアへ拡大すると[[レバノン]]の名家マアンオール家と結んで[[アレッポ]]を足場に独立宣言をした。