「ポリニャック公爵夫人ヨランド・ド・ポラストロン」の版間の差分

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=== 外見 ===
現存する肖像画の大半が彼女の際立った美しさを伝えている。ある歴史家は、[[エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン|E・ヴィジェ=ルブラン]]の手になる肖像画の中のガブリエルについて、「穫れたてのいい香りのする果物みたい」と形容している<ref>{{cite book|author=Schama|title=Citizens|page= 183}}</ref>。ガブリエルは暗めのブルネットの髪、非常に青目立って白い肌、そしておそらく非常に珍しいことだが、「ライラック色」とか「スミレ色」と形容された、薄紫色に光る眼を持っていた<ref>{{cite book|author=Zweig, Stefan & Paul, E. (Editor) & Paul, C. (Translator)|date=1938|edition=1988|title=Marie Antoinette: The portrait of an average woman|publisher= Cassell Biographies|location= London |isbn=0-304-31476-5|page=124}}</ref>。
 
ガブリエルに関する同時代人の批評をまとめたある現代史家に要約させれば、彼女の物理的な外見は次のようになる。{{quote|「きわめて自然な」印象を与える若々しい美貌…豊かな黒髪、大きな目、通った鼻筋、真珠のように輝くきれいな歯は、[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]の描く[[聖母マリア|マドンナ]]を思わせた<ref>{{cite book|author=Fraser, Lady Antonia |title=Marie Antoinette: The Journey|page=155}}。訳文は、日本語訳版である[[アントニア・フレイザー]]著、野中邦子訳『マリー・アントワネット(上)』早川書房、2006年、P283を参照。</ref>。}}
 
=== ヴェルサイユ ===
[[File:Gabrielle de Polastron Duchess of Polignac.jpg|upright|thumb|ポリニャック夫人を初めて見たマリー・アントネットの目は「眩んだ」という。]]
宮廷女官となった義妹の[[ディアーヌ・ド・ポリニャック]]の招待を受け、ガブリエルと夫は1775年のある日、[[ヴェルサイユ宮殿]]鏡の間で行われた公的なレセプションに出席した。そこで彼女を初めて紹介された王妃マリー・アントワネットはガブリエルのあまりの美しさに衝撃を受けて目が「眩み」<ref>{{cite book|author=Zweig, Stefan & Paul, E. (Editor) & Paul, C. (Translator)|date=1938|edition=1988|title=Marie Antoinette: The portrait of an average woman|publisher= Cassell Biographies|location= London |isbn=0-304-31476-5|page=122}}</ref>、ヴェルサイユに永住するよう彼女に懇願した。ヴェルサイユ宮廷で暮らすことは非常に高額な出費を伴ったため、ガブリエルは自分の夫には宮廷に部屋を維持するだけの収入がないと正直に答えた<ref>{{cite book|author=Cronin|title=Louis and Antoinette|page= 132}}</ref>。新しいお気に入りを自分のそば近くに置いておきたい王妃は、すぐさまポリニャック一族の抱える借金を清算してやり、ガブリエルの夫に実入りのよい官職(王妃主馬頭の襲職権保有者)を与えた。
 
ガブリエルは王妃のアパルトマンの近くの快適な部屋を与えられた。彼女はさらに王妃と仲の良い王弟[[シャルル10世 (フランス王)|アルトワ伯爵]]と友人になったし、他ならぬ国王[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]が、有力者同士門閥間の権力闘争とは無縁の新しい妻の友人の出現に安心し、王妃がガブリエルと友情を育むことに賛成してくれた<ref>{{cite book|author= Hardman, J.|title=Louis XVI: The Silent King}}</ref><ref>{{cite book|author=Fraser, Lady Antonia |title=Marie Antoinette: The Journey|pages= 155–6}}</ref>。しかしガブリエルの登場は、国王夫妻の他の側近たちからは反感を持たれた。特に王妃の聴罪司祭{{仮リンク|マチュー=ジャック・ド・ヴェルモン|fr|Mathieu-Jacques de Vermond|label=ヴェルモン}}神父、及び王妃と実家との連絡役を務める駐仏オーストリア大使[[フロリモン=クロード・ド・メルシー=アルジャントー|メルシー]]伯爵は強い敵意を抱き、メルシーは王妃の母親[[マリア・テレジア]]皇后に宛てた手紙に、「こんな短い期間にこんな巨額の金がただ一つの家族にあたえられたためしはありません」と書き送った<ref>{{cite book|author=Zweig, Stefan & Paul, E. (Editor) & Paul, C. (Translator)|date=1938|edition=1988|title=Marie Antoinette: The portrait of an average woman|publisher= Cassell Biographies|location= London |isbn=0-304-31476-5|page=121}}訳文は、日本語訳版であるシュテファン・ツヴァイク著、関楠生訳『マリー・アントワネット(上)』河出書房新社、1989年、P182を参照。</ref>。
 
カリスマと圧倒的な美貌をそなえたガブリエルは、瞬く間に王妃のごく内輪の取り巻きサークル「プチ・キャビネ(petit cabinets)」の最有力者となり、彼女の同意がなければ「プチ・キャビネ」の仲間入りをすることはほぼ不可能となった<ref>{{cite book|author=Foreman|title=Georgiana|pages= 166–7}}</ref><ref>{{cite book|author=Mossiker|title=The Queen's Necklace|pages=132–3}}</ref>。ガブリエルは多くの友人たちから、洗練されており、立ち居振る舞いが優雅で、愛嬌があって、楽しませてくれる人、という評判を得ていた<ref>{{cite book|author=Cronin|title=Louis and Antoinette|pages= 149–150}}</ref>。
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*カミーユ・アンリ・'''メルシオール'''・ド・ポリニャック(1781年 - 1855年) - 伯爵、王政復古期の[[フォンテーヌブロー宮殿]]総監、モナコ公[[アルベール2世 (モナコ公)|アルベール2世]]の先祖。
 
ガブリエルが王妃の寵愛を得て以降、夫ジュールの大叔父にあたる{{仮リンク|メルシオール・ド・ポリニャック|en|Melchior de Polignac}}枢機卿以来、の失脚後長く権力から遠ざかっていた{{仮リンク|ポリニャック家|en|Polignac family}}は再び宮廷で重きをなすことができた。
 
一方、実家の{{仮リンク|ポラストロン家|fr|Famille de Polastron}}とその親類縁者も、ガブリエルのおかげで宮廷で華やぐことになった。父のポラストロン伯爵(後に恐怖政治下でギロチンの犠牲となる)はベルン駐在大使に取り立てられた<ref>プティフィス、P345。</ref>。腹違いの弟妹も次々に条件の良い結婚をした。
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1782年、王家のガヴァネス(王家養育係主任女官)だった[[ヴィクトワール・ド・ロアン|ゲメネ夫人]]が、投資詐欺に巻き込まれた夫の破産スキャンダルのために辞職した。王妃はゲメネ夫人の後任にガブリエルを任命した。この人事は、(次代の王を育てる)その役職の重要さを考えるとポリニャック家のような平凡な家柄の者が務めるのは分不相応だ、ということで、またもや宮廷人の反感を買った<ref>{{cite book|author=Fraser|title=Marie Antoinette|page= 239}}</ref>。
 
新たに得た地位に付帯する特権により、ガブリエルはヴェルサイユ宮殿内に13の部屋から成るアパルトマンを与えられた。この特権自体は宮廷儀礼の範疇に収まる措置であったが、13ものの、13という部屋数の多さは常に人口過密のヴェルサイユ宮殿にあっては前例のないことだった。王家のガヴァネスに割り当てられるアパルトマンの部屋数は通常4部屋から5部屋ほどであった。ガブリエルはまた、1780年代に[[小トリアノン宮殿]]の敷地内に造営された王妃の田園風の隠遁所「[[ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ|王妃の村里]]」の中にコテージを与えられた。
 
ガブリエルの結婚生活は因習的な貴族同士の結婚であり、夫と心が通うこともなく、家庭は幸福とは言えなかった。長年、夫の遠縁で近衛部隊所属の陸軍大尉だった{{仮リンク|ジョゼフ・イアサント・フランソワ=ド=ポール・ド・リゴー|en|Joseph Hyacinthe François de Paule de Rigaud, Comte de Vaudreuil|label=ヴォドゥロイユ伯爵}}と愛人関係にあると見られていた。一方で、ガブリエルが仲間入りした世界では、ヴォドゥロイユは暴力的すぎ、礼儀をわきまえなさすぎるため、2人の交際は相応しくないと周囲からは思われていた<ref name="Campan">{{cite book |title=Memoirs of the Private Life of Marie Antoinette: To which are Added Personal Recollections Illustrative of the Reigns of Louis XIV, Louis XV, and Louis XVI|last=Campan |first=Jeanne-Louise-Henriette |authorlink= |author2=Jean François Barrière |year=1823 |publisher=H. Young and Sons |location=University of Michigan |isbn=1-933698-00-4 |pages=195–196, 185–191 |url=https://books.google.com/books?id=V8JnAAAAMAAJ&q=The+Private+Life+of+Marie-Antoinette:+A+confidante+account&dq=The+Private+Life+of+Marie-Antoinette:+A+confidante+account&pgis=1 }}</ref>。ガブリエルがヴェルサイユ宮廷に来てから産んだ下の息子たちは、実父はヴォドゥロイユだと噂されていた。しかし、ガブリエルとヴォドゥロイユとの間の関係がどのような類のものだったかについては一部の歴史家の間で議論になっており<ref>John Hardman, ''Marie-Antoinette: The Making of a French Queen'' (New Haven: Yale University Press, 2019), pp. 83-88, は、ヴォドゥロイユをガブリエルと肉体関係を持っていたと判断している。一方、Vincent Cronin, ''Louis and Antoinette'' (London: Collins, 1973), pp. 220-221, 316, は、2人の関係は肉体関係に発展しないプラトニックなものだったと考えている。</ref>、2人の関係に性交渉が介在したかについて疑問が呈されている。このプラトニック説は近年、カトリックの歴史作家{{仮リンク|エレナ・マリア・ヴィダル|en|Elena Maria Vidal}}によって復活した<ref>{{cite web|website=Tea At Trianon|url=http://teaattrianon.blogspot.com/2007/12/madame-de-polignac-and-politics-of.html|title=Madame de Polignac and Politics|accessdate=2020-10-17}}</ref>。恋人同士と言われ続けていたにもかかわらず、人を巧みに操るヴォドゥロイユを王妃が毛嫌いし、ヴォドゥロイユの存在が自分の得た地位を脅かす恐れが生じると、ガブリエルは何のためらいもなく彼を見捨てたからである。
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ヴォドゥロイユとガブリエルの間で交わされた手紙は現在のところ発見されていないが、それは2人の関係が絶えたころにはお互いをもう必要としなくなっていたためなのか、それとも政治的配慮から2人のやりとりを隠して行っていたためなのかは、判然としない。もし手紙が交わされていたとしても、それは一方、あるいは両方、あるいは第三者が、用心のために破棄してしまったからだと考えられる<ref>Cronin, ''Louis and Antoinette'', p. 394</ref>。
 
次男の[[ルイ17世|ノルマンディー公爵]]を出産した1785年頃から、ヴォドゥロイユが無礼で苛立たしい人物だと気づいた王妃は彼に対する嫌悪感を募らせ、それにつれてガブリエルの王妃に対する影響力は衰えていった<ref>カンパン夫人によれば、ヴォドゥロイユがガブリエルのアパルトマンで王妃が与えた象牙製のビリヤードのキューをふざけて叩き壊して以降、彼に対して感じよく振舞おうとする努力を完全に放棄したという。王妃は、自分の取り巻きたちが自分の軽蔑するある政治家に地位をあたえようとした際、彼らの野心に辟易するようになったという。{{cite book|author= Madame Campan|title=The Private Life of Marie Antoinette: A Confidante's Account}} Chapter XII.p. 195-6.</ref>。王妃の侍女頭[[アンリエット・カンパン|カンパン夫人]]によれば、王妃はポリニャック一族に対して自分が感じる「強い不満感にお苦しみあそばされた」。カンパン夫人は述べている、「王后陛下は、『君主が自分の宮廷で寵臣をつくるということは、君主自身に対抗するもう一人の専制君主をつくるということなのね』と私に仰せられになった<ref name="Campan"/>」。
 
王妃に煙たがられていると感じたガブリエルは、イングランドの友人たち、特に親友の1人でロンドン上流社交界の指導者的存在だった[[ジョージアナ・キャヴェンディッシュ (デヴォンシャー公爵夫人)|デヴォンシャー公爵夫人]]を訪ねにイングランドへ旅立った<ref>{{cite book|author=Foreman, A. |title=Georgiana: Duchess of Devonshire|page= 195}}</ref>。同国滞在中、ガブリエルはひ弱な体質のために「ちっちゃなポー(Little Po)」という呼び名で知られた。