「竹御所」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
8行目:
[[寛喜]]2年([[1230年]])、29歳で13歳の第4代[[征夷大将軍|将軍]][[藤原頼経]]に嫁ぐ。夫婦仲は円満であったと伝えられる。その4年後に懐妊し、後継者誕生の期待を周囲に抱かせたが、[[難産]]の末に男児を死産し、本人も死去した。享年33。これにより頼朝と政子の直系子孫は完全に断絶した。
 
[[藤原定家]]の日記『[[明月記]]』によると、訃報がもたらされると鎌倉武士たちは[[源氏将軍]]の血筋が断絶したことに激しく動揺し、京都にあった御家人はこぞって鎌倉に下ったという。定家はこのことに対し「[[平氏|平家]]の遺児らをことごとく葬ったことに対する報いであろう」と述べている。『[[吾妻鏡]]』[[嘉禎]]元年七月二十七日条に「竹御所の姫君」が喪の期間が明けたことが記されているが、これは竹御所の養女と考えられている。
 
墓は[[比企氏|比企]]一族の[[菩提寺]]である[[妙本寺]]にある。