「応仁の乱」の版間の差分

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嘉吉の乱で赤松家の鎮圧に功があった山名宗全は、婿の細川勝元が赤松家の再興に関して [[赤松政則]]に肩入れしたことが原因で、両者は激しく対立するようになっていた。
 
武衛騒動では、宗全が斯波義廉の後ろ盾になったことから、斯波義敏は勝元を頼って復権を画策した。
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1465年(寛正6年11月23日)、義政と富子との間に [[足利義尚]](はじめ義煕)が誕生する。義尚を将軍にさせたいと願う富子は、勝元の舅でその対抗者でもあった宗全に接近し、義尚の次期将軍擁立を企てたことから、義視を奉じる勝元、義尚を奉じる宗全という構図もできあがった。
 
 
== 大乱の勃発 ==