「串原遠山氏」の版間の差分
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[[元亀]]元年([[1570年]])12月には、「串原遠山右馬助景男」と「串原遠山五郎教景」が[[武田氏]]の侵攻による[[上村合戦]]に参戦し<ref>『明智年譜』</ref>、武田家重臣の[[秋山虎繁]]と戦って串原遠山右馬助は討死にした。討死にした人物は武田三代軍記では[[串原弥左衛門]]、美濃諸国記には串原弥左衛門親春と記されている。
[[天正]]2年([[1574年]])の武田氏の東濃侵攻により串原城は落城した<ref>『甲陽軍鑑』第51品</ref>。その後串原遠山氏の家臣団(堀、中垣、三宅、大嶋)は解体されて長百姓となった。また岩村城が織田方の攻撃により落城した天正3年([[1575年]])には、[[串原弥兵衛]]が討死している。遠山右馬助(弥左衛門)の子供[[遠山経景]]は明知遠山氏の武将[[遠山利景]]の養子となって、利景と共に各地で戦功を重ね、[[明知遠山氏]]の再興に貢献した。江戸幕府成立後に養親の利景は[[交代寄合]]となったが、経景は、
== 脚注 ==
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