「ガイウス・ドゥイリウス」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
出典の追加と加筆
出典の追加と加筆
12行目:
 
==経歴==
ドゥイリウス氏族は[[紀元前5世紀]]に[[護民官]]、[[紀元前4世紀]]には[[執政官]]と[[トリブヌス・ミリトゥム・コンスラリ・ポテスタテ]]を一人ずつ出している、[[プレブス]]の一族である。<!--過去に執政官、執政武官共に出している 詳しい家系などは分かっていないが、当時ローマ社会に台頭しつつあった新興階級であったと考えられている。このような古来からの社会的なつながりのない家系にもかかわらず、-->
 
[[第一次ポエニ戦争]]中の[[紀元前260年]]、ドゥイリウスは執政官に当選する。同僚コンスルの[[グナエウス・コルネリウス・スキピオ・アシナ]]とともに軍を統率する立場、アシナあったが、後続部隊海軍率いておりあまり活躍ドゥイリウス期待され陸軍を担当しなかった。しかし操船に不馴れなローマ軍は、緒戦の[[リーパリ諸島の海戦]]で同僚のスキピオ・アシナが捕虜となったため、ドゥイリウスが総司令官となってしまい、その後カルタゴ司令官[[ハンニバル・ギスコ]]率いる残存勢力と遭遇する。そして[[ミラエ沖の海戦]]で大勝利を収める。これはローマ軍の新兵器「[[コルウス]]」(カラス)を功を奏した結果であった。ドゥイリウスはこの戦いで多くの敵船を拿捕、その中には敵将ギスコの乗る旗艦も含まれていた。この戦いはローマ軍が海戦で初めて勝利を収めた戦いであった。[[ヨハネス・ゾナラス]]によると、ドゥイリウスは最初から海軍を率いており、ローマ軍の海での不利をカバーするためにコルウスを考案したことになっている<ref>ゾナラス『Epitome Historiarum』8.11</ref>
 
この海戦の後、[[シチリア|シキリア]]でカルタゴ軍に包囲されていた[[セジェスタ|セゲスタ]]を解放し、マケッラを落とした。これらの勝利にドゥイリウスは初めて海軍[[凱旋式]]を行う栄誉を得て、[[ロストラ柱]]が建てられた{{Sfn|Broughton Vol.1|loc=p.205}}。また、外食から帰宅する時、松明と笛吹きに先導される特権を与えられた<ref>[[マルクス・トゥッリウス・キケロ|キケロ]]『[[大カトー・老年について]]』44</ref>
 
[[紀元前258年]]には[[ルキウス・コルネリウス・スキピオ]]と共に監察官([[ケンソル]])を務めたが、詳しい事は分かっていない。また、[[紀元前231年]]には選挙管理の為[[独裁官]]に指名されている{{Sfn|Broughton Vol.1|loc=p.226}}。
32行目:
==参考文献==
* {{Cite book|洋書|ref={{sfnref|Broughton Vol.1}}|author=[[:en:Thomas_Robert_Shannon_Broughton|T. R. S. Broughton]]|title=The Magistrates of the Roman Republic Vol.1| publisher=American Philological Association | year=1951, 1986 |}}
* {{Cite book|洋書|ref={{sfnref|Smith}}|author=[[:en:William Smith (lexicographer)|William Smith]]|title=[[:en:Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology|Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology]]| publisher= London, Taylor and Walton | year=1849 |oclc=867371168|}}
 
==関連項目==