「霊太后」の版間の差分

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[[孝昌]]4年([[528年]])、孝明帝が突然崩御した(一説によれば、帝が[[爾朱栄]]を頼ろうとしたため、霊太后が毒殺したとされる)。孝明帝には男子がなく、胡太后は帝の唯一の子であった[[:zh:元氏 (北魏孝明帝女)|皇女某]]を男と偽って皇太子と称し、[[武泰]]元年/[[建義]]元年(528年)4月1日にこれを無理やり帝位に就けた。しかし、すぐにそのことが発覚したため、皇女某をわずか1日で[[廃位]]し、改めて武泰元年/建義元年(528年)4月2日に孝明帝の従甥に当たる[[元釗]](幼主)を帝位に就けた。
 
このような目まぐるしい廃立は天下を震撼させるに余りあり、将軍の[[爾朱栄]]はその{{読み仮名|欺瞞|ぎまん}}を疑い、挙兵に及んだ。そして、わずか15日で京師の[[洛陽]]を陥落させ、幼主と胡太后を捕らえた。代わって、新たに長楽王の元子攸([[孝荘帝]])が皇帝に擁立された。爾朱栄は幼主と胡太后を連行して[[黄河]]に送り、河中に沈めた([[河陰の変]])。代わって、新たに長楽王の元子攸([[孝荘帝]])が皇帝に擁立された
 
その後、胡太后の[[妹]]の馮翊郡君[[胡玄輝]]により太后の遺骨は双霊寺に埋葬された。[[高歓]]が[[爾朱氏]]を破った後、[[皇后]]の礼で改葬され、「霊」と諡された。