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当時の眼科の[[治療]]法としては、[[内服薬]]・薬液による洗眼・[[軟膏剤|軟膏]]貼付・粉末撒布の他に[[鍼]]や烙法による簡単な手術などであった。それでも内障(当時は[[白内障]]や[[緑内障]]に限らず、[[硝子体]]や[[網膜]]の異常も含んだ)や結膜炎などの広範な治療に、効果を発揮していた。
 
その名声は[[朝廷]]にも伝わり、やがて[[永正]]15年([[1518年]])には朝廷の依頼を受けて、薬師寺の僧侶が[[後柏原天皇]]の眼病を治療する。次いで[[寛永]]9年([[1632年]])に[[後水尾天皇|後水尾上皇]]の皇女の眼病の治療にあたったことから「明眼院」の院号を賜った{{sfn|大治町史編集委員会|1979|pp=580 - 581}}。[[明和]]3年([[1766年]])には[[桃園天皇|桃園帝]]の第2皇子<ref>[[伏見宮貞行親王]]と思われるが、参考文献には記述が無い。</ref>の治療を行なったことから[[勅願寺]]の格式が与えられた{{sfn|大治町史編集委員会|1979|pp=580 - 581}}。[[File:Majimamyogenin_Owarimeishozue.jpg|thumb|700px|[[小田切春江]][[尾張名所図会]]』に天保9年([[1838年]])同12年([[1842年]])に描いた明眼院の全体図。広い境内に治療施設や患者の居住施設があるのが見て取れる]][[File:Owari_MajimaMyogenin_niwa.jpg|thumb|400px|『[[尾張名所図会]]』に描かれた明眼院後園。]]