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出身は美濃国厚見郡高桑邑(現在の岐阜県岐阜市柳津町高桑)。美濃源氏の高桑城、城主。高桑一族の長。
 
承久の乱での、[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]側の京方軍、朝廷から「大将軍」に任命された。東山道軍。
 
「[[承久記]]」によると、[[承久の乱]]において、朝廷軍、幕府軍の両軍通じて戦死第一号者である。
 
==== 承久の乱 ====
[[承久の乱]](承久3年 西暦1221年)は6月5日夜、大井戸(現在の岐阜県可児市)で始まり、京方東山道軍の大将である[[大内惟信]]と共に朝廷から高桑大将軍、高桑大将軍の次男である高桑次郎と共に高桑武士団を結成し、約2000騎を引き連れて幕府軍と戦った。
 
京方東山道軍の大将である[[大内惟信]]と共に朝廷から高桑大将軍、高桑大将軍の次男である高桑次郎と共に高桑武士団を結成し、約2000騎を引き連れて幕府軍と戦った。木曽川には当時、複数の浅瀬があり、京方軍はそれらの浅瀬に軍勢を引き連れ木曽川の浅瀬で幕府軍を迎え撃つ構えをとる。
 
高桑大将軍、高桑次郎、又、高桑武士団は、戦国時代とは異なり、「高桑」である一族の姓名を大書した織旗を当時は自陣に押立てていた。
木曽川には当時、複数の浅瀬があり、京方軍はそれらの浅瀬に軍勢を引き連れ木曽川の浅瀬で幕府軍を迎え撃つ構えをとる。
 
「[[承久記]]」によると、高桑大将軍は、木曽川の戦いにおいて最北の「大井戸の疫」(現在の岐阜県美濃加茂市大田三井)の守備につき、馬上で指揮をとっている間、敵方である幕府軍甲州源氏の武田氏、小笠原氏に高桑殿大将軍と直ぐに分かってしまった。
 
この時、朝廷軍の高桑大将軍を討ち取ったのが、幕府側、小笠原氏の郎徒(郎党兵卒)の荒三郎(19歳)
高桑大将軍、高桑次郎、又、高桑武士団は、戦国時代とは異なり、「高桑」である一族の姓名を大書した織旗を当時は自陣に押立てていた。
 
荒三郎は木曽川の疫河である場所を探るため川に潜っていた。
 
高桑大将軍は、大変大きな立派な鎧武者を身に付けており、矢で射抜き高桑大将軍は戦死した。
 
「木曽川の戦い」[[承久の乱]]において、両軍を通じての戦死第一号である。
「[[承久記]]」によると、高桑大将軍は、木曽川の戦いにおいて最北の「大井戸の疫」(現在の岐阜県美濃加茂市大田三井)の守備につき、馬上で指揮をとっている間、敵方である幕府軍甲州源氏の武田氏、小笠原氏に「高桑殿」と直ぐに分かってしまった。
 
 
高桑氏戦死の地に近い現在の岐阜県各務原市鵜沼にある「正法寺境内に24体の高桑武士団の墓石があると言われている。
この時、朝廷軍の高桑大将軍を討ち取ったのが、幕府側、小笠原氏の郎徒(郎党兵卒)の荒三郎(19歳)
 
== 系譜 ==
荒三郎は木曽川の疫河である場所を探るため川に潜っていた。
・次男:高桑次郎
 
=== 高桑次郎、謀反事件 ===
高桑大将軍は、大変大きな立派な鎧武者を身に付けており、矢で射抜き高桑大将軍は戦死した。
次男の高桑次郎は[[藤原定家]]の日記「[[明月記]]」によると、嘉禄2年(1226年)の項に「美濃の人、高桑次郎が鎌倉幕府・北条政権に対する謀反人として、京都、[[六波羅探題]]に捕らえられる。」という」明記がある。
 
その際、高桑次郎は首領として、実に300人の将兵を率いて[[六波羅探題]]を襲ったという。
「木曽川の戦い」[[承久の乱]]において、両軍を通じての戦死第一号である。
 
この謀反事件は、[[承久の乱]]の僅か6年後に起きている。この乱の幕府側主導者であった第二代執権 [[北条義時]]はこの事件の前々年に死去(62歳)。[[北条政子]](69歳)と幕府の大黒柱であった[[大江広元]](78歳)は、共に事件前年に死去している。
 
高桑次郎は、幕府を支えたこの3人の相次ぐ死去で幕府の力がかなり弱まったと誤認し、
 
「頃は良し」と決起したのかもしれない。
 
== 参考文献 ==
高桑氏戦死の地に近い現在の岐阜県各務原市鵜沼にある「正法寺境内」に24体の高桑武士団の墓石があると言われている。
・我妻鏡
 
・[[承久記]]
 
鏡右衛門尉久網
文献「我妻鏡」「承久記」
 
・[[明月記]]
「鏡右衛門尉久網」