「顕子女王」の版間の差分

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姉は[[紀州徳川家|紀州家]]の第2代藩主[[徳川光貞]]の正室([[御簾中]])の[[照子女王|安宮照子(天真院)。]]後に第8代将軍となる[[徳川吉宗]]がまだ[[紀州藩]]第5代藩主だったころに御簾中に迎えた[[理子女王|真宮理子]]の伯母にあたる。
 
== 生涯 ==
[[明暦]]3年(1657年)に家綱と婚姻して[[江戸城]]西御丸へ入り。お付き上臈として、京より姉小路局や飛鳥井局などが付き従った。[[万治]]2年(1659年)9月5日に本丸[[大奥]]に入り御台所を称した。[[延宝]]元年(1673年)[[従三位]]。
伏見宮貞致親王の娘として[[京都]]で生れた。母は[[宇喜多秀家]]の娘([[豊臣秀吉]]の養女)<ref>歴史読本「徳川将軍家の正室」蒲生眞紗雄著『浅宮顕子』([[新人物往来社]])P99</ref>。
 
[[東福門院]]の人選によって将軍家綱と婚約<ref>[[高柳金芳]]『徳川妻妾記』([[雄山閣]])P121-P122</ref>。[[明暦]]3年(1657年)4月5日に京都を発ち、同月23日に[[江戸城]]本丸・[[大奥]]に入った<ref>[[竹内誠 (歴史学者)|竹内誠]]『徳川「大奥」事典』([[東京堂出版]])P204</ref>。お付き[[上臈御年寄|上臈]]として、京より姉小路局や飛鳥井局などが付き従った。7月10日に江戸城西の丸にて婚儀が執り行われた<ref>西の丸で婚儀が行われたのは、同年1月に起きた[[明暦の大火]]により本丸御殿が焼失し、再建が間に合わなかった為である</ref>。
延宝4年(1676年)に[[乳癌]]を発症、医師による触診を拒否し、同年8月5日に37歳で薨去。東叡山[[寛永寺]]に葬られる。戒名は高厳院殿月潤円真大姉。家綱との間に子はなかった。
 
[[万治]]2年(1659年)9月5日に本丸大奥に入り[[御台所]]を称した。[[延宝]]元年(1673年)には[[従三位]]に叙された。
 
延宝4年(1676年)に[[乳癌]]を発症。家綱より直接医師の診察を受けるように進められたが「簾外の者に対面するのは、公家方の礼を乱すことになる」と言って<ref>[[卜部典子]]『人物事典 江戸城大奥の女たち』(新人物往来社)P171</ref>医師による触診を拒否した。病に苦しみながらも一度も「苦しい」とは言わなかったという<ref>[[中江克己]]『江戸城の迷宮「大奥」の謎を解く』(PHP文庫)P100</ref>。同年8月5日に37歳で薨去。東叡山[[寛永寺]]に葬られる。戒名は高厳院殿月潤円真大姉。家綱との間に子はなかった。
 
延宝5年(1677年)8月2日、[[従一位]]が追贈された。