「ジュール・ミシュレ」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[パリ]]のトラシ街 ([[:fr:Rue de Tracy|fr]], 現在の[[2区 (パリ)|パリ2区]]) 生まれ。印刷業者の父の仕事を手伝いながら勉強に励んだ。[[リセ]]・シャルルマーニュ(現在の[[4区 (パリ)|パリ4区]])を経て、1819年に[[文学博士]]となり、1821年に[[アグレガシオン]]に通り<!---[[文学博士]]-->、1827年に[[高等師範学校 (フランス)|高等師範学校]]の歴史学教授となる。[[ヴィーコ]]の歴史論・哲学の影響を受けた。1830年の[[フランス7月革命|七月革命]]を境として、王党カトリック的立場を離れ、[[自由主義]]に転じた。1831年、[[フランス国立中央文書館|国立古文書館]]の歴史部長。1834年、[[ソルボンヌ大学]]教授として[[フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー|ギゾー]]の講座の代行者。1838年から[[コレージュ・ド・フランス]]で教授<ref>[https://kotobank.jp/word/ミシュレ-138548 「ミシュレ」]ブリタニカ国際大百科事典小項目事典</ref>となり教鞭をとった。これ以降、民主主義的・反教権的になり、保守化した当時の支配者[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]や、体制側のギゾー批判を行った。
 
1848年に[[1848年革命|二月革命]]が起きると熱狂的に支持した。1852年、[[ナポレオン3世]]への宣誓を拒否し、コレージュ・ド・フランスの教授の地位を追われた。晩年は隠棲し、博物誌シリーズなどを著述。