「ガイウス・クラウディウス・プルケル (紀元前92年の執政官)」の版間の差分

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[[紀元前99年]]、[[アエディリス|アエディリス・クルリス]](上級按察官)に就任<ref>Broughton 1952 , p. 1.</ref>。この権限で壮大な競技会を実施したが、ローマ市民はこのとき初めて象を見た。[[キルクス]](戦車競技場)に作られた舞台が異なる色で塗られたのもこれが初めてであった。[[紀元前95年]]に[[プラエトル]](法務官)に就任し<ref>Broughton 1952 , p. 11.</ref>、恐喝法廷の裁判長を務めた。また、[[元老院]]から[[シキリア属州]]のガレス市の選挙に関する法律の制定を命じられた。翌年には道路建設の監督官を命じられている<ref name = R8 />。
 
[[紀元前92年]]に執政官に就任。同僚執政官は[[プレブス]](平民)の[[マルクス・ペルペルナ (紀元前92年の執政官)|マルクス・ペルペルナ]]であった<ref>Broughton 1952 , p. 17.</ref>。ペルペルなは無名の[[ノウス・ホモ]]であったことから、歴史学者F.ミュンツァーは彼がプルケルの支援のおかげで当選したと考えている。年末の執政官選挙では、両者は[[ルキウス・マルキウス・ピリップス (紀元前91年の執政官)|ルキウス・マルキウス・ピリップス]]を支援し、当選に導いた。ピリップスはプルケルの母方の甥であった<ref>Claudius 386, 1899, s. 2886.</ref><ref>Korolenkov, 2007, p. 81.</ref>。また按察官選挙では弟のガイウスを支援したが、こちらは落選した<ref>キケロ『プランキウス弁護』、51.</ref>。執政官としては、護民官[[グナエウス・パピリウス・カルボ (紀元前9585年の執政官)|グナエウス・パピリウス・カルボ]]が暴動が始まっても[[民会 (ローマ)|民会]]を解散しなかったために、「反乱」として元老院に報告している。その報告と、[[ケンソル]](監察官)[[ルキウス・リキニウス・クラッスス]]の意見から、元老院はカルボが「暴力的な行為」を求めていたことを認めた<ref>キケロ『法律について』、III, 42.</ref>。
 
執政官任期満了後、プルケルに関する記録はない。おそらく、その直後に死亡したと思われる<ref name = R8 />。