「東海道吉田」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m
→‎概要: 「出典無効」テンプレート貼り付け
32行目:
北斎は[[名古屋]]へ2度赴いており{{Refnest|group=注釈|1812年(文化9年)、名古屋にて『北斎漫画』の下絵を描く。1817年(文化14年)10月5日、名古屋・西本願寺別院境内で、120畳大の達磨を描く{{Sfn|東京都江戸東京博物館|1995}}{{Sfn|名古屋市博物館|2017}}}}、[[近畿地方|京畿八道]]へも2度訪れた可能性があるため{{Refnest|group=注釈|1812年(文化9年)と1817-18年(文化15-16年)に伊勢・大和・大阪・紀伊を旅したか{{Sfn|永田|2009}}}}、[[茶屋]]に寄ったかもしれない。但し、実際に富士が見られたとしても、もっと小さな姿だろう{{Sfn|日野原|2019|p=109}}。
 
立体地図ソフト「[[カシミール3D]]」から、理論上、富士が見える位置図を作成した田代博によると、[[三河国]]で富士が見られる地域は限定されるが、下五井村付近は可視できる範囲になっている{{Sfn|田代|2011|p=98}}{{出典無効|date=2020-11-16 |title=出典提示箇所に記述無し}}。
 
構造物(ここでは、窓)の間から富士を覗かせる手法は、『三十六景』の「深川万年橋下」「[[尾州不二見原]]」「[[上總ノ海路]]」「登戸浦」(のぼとうら)でも見られる技法であるが、このような構図は、[[河村岷雪]]の『百富士』の影響を受けたと指摘される{{Sfn|磯|1961|p=72-84}}。