「近衛熙子」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
→‎生涯: 史実的根拠がない為、表現を変更。
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
→‎生涯: 内容追加、編集
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
15行目:
大奥に入ると甲府時代とは一変し、夫婦で過ごす時間はごく限られるようになった。お喜世の方(のちの[[月光院]])ら[[側室]]たちが迎えられたことによって、更に疎遠になったともいわれているが、家宣が将軍職に就いた3年の間に夫婦で数え切れないほど[[吹上御苑|吹上庭園]]を散歩したり、家宣が熙子の部屋を度々訪ねては、公式の手紙や文章を見せて意見を求めていることから<ref name="segawatoshiko">瀬川淑子「皇女品宮の日常生活 ―『无上法院殿御日記』を読む」([[2001年]]、[[岩波書店]])P138-P153</ref> 、夫婦仲は変わらず良好であったと思われる。
 
[[正徳 (日本)|正徳]]2年([[1712年]])に夫・家宣は病により没し、熙子も落飾して[[院号]]を天英院と号する。お喜世の方が産んだ[[徳川家継|家継]]が[[将軍宣下]]を受けたのに伴って[[従一位]]を賜り一位様と呼ばれた。家宣の遺言により本丸大奥に留まり、家継の嫡母としてその[[後見人|後見]]となった<ref name="makototakeuchi">[[竹内誠 (歴史学者)|竹内誠]]『徳川「大奥」事典』([[東京堂出版]])P258-P259</ref>。
 
[[月光院]](お喜世の方)とは不仲であったといわれるが、当人たちの対立ではなく周囲の人々(お付き女中等)の諍いであったと見られている<ref>山本博文『大奥学』([[新潮文庫]])P213</ref><ref>[[鈴木由紀子]]『大奥の奥』([[新潮新書]])P160</ref>。また、[[御年寄]]にして月光院の腹心であった[[絵島|江島]]が大奥の門限に遅裁かれた[[江島生島事件]]では、[[老中]]や譜代門閥層と結託して、月光院と[[側用人]]・[[間部詮房]]と[[新井白石]]らの権威失墜を謀ったという説がある<ref>ただし、事件における月光院の影響力や、大奥勢力の相関関係など不明であり反対勢力によるこれも謀議を裏付ける史料ない為、憶測の域を出ていない。( <ref>竹内誠『徳川「大奥」事典』(東京堂出版)P103「事件と危機管理」)</ref>。しかしその後は仲も良好になったらしく、家継が病気で危篤状態になり、嘆き悲しんでいた月光院を励ましたと言われている。家継への八十宮降嫁にあたっては、月光院とともに主導的な役割を果たしている<ref name="yamamotohirofumi"/>。
しかしその後は仲も良好になったらしく、家継が病気で危篤状態になり、嘆き悲しんでいた月光院を励ましたと言われている。家継への八十宮降嫁にあたっては、月光院とともに主導的な役割を果たしている<ref name="yamamotohirofumi"/>。
 
家継の早世後、紀州藩主の[[徳川吉宗]]を8代将軍に迎えるのに尽力したと言われ、