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|画像 = Zhang_Xiu_Qing_portrait.jpg
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|説明 = [[清]]代の書物に描かれた張
|王朝 = [[後漢]]
|称号・役職 = 破羌将軍
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'''張 繡'''(ちょう しゅう、? – [[建安 (漢)|建安]]11年([[207年]]))は、[[中国]][[後漢]]末期の武将。季父は[[張済 (後漢の武将)|張済]]<ref>[[後漢紀]]·卷29》載:』巻29:「春正月,曹操征張繡,繡降。其季父妻,色也,操以為妾。」</ref>。子は張泉・女子一人。[[涼州]][[武威郡]]祖厲県(現在の[[甘粛省]][[武威市]][[靖遠県]])の人。
 
==生涯==
若い頃は[[県長]]劉雋の抜擢を得て、県吏として仕えた。しばらくして、[[韓遂]]・[[辺章]]らに呼応した麹勝が謀反を起こし、劉雋を殺害した。張は隙を見て麹勝を暗殺し、上司の仇を討ち武名を挙げた。その後、当時[[董卓]]の配下であった季父に従った。
 
建安元年([[196年]])、季父が[[南陽郡]]の穣を攻略中に、流れ矢に当たって戦死したために、その軍勢を張が継ぐ事となった。その後、新たに参謀として加わった[[賈詡]]は、張に対し「将軍(張)は軍才に優れておられるが、[[曹操]]には及ばない」と語ったと言われる。張は賈詡の進言に従い、賈詡を派遣して[[劉表]]と同盟を結んだ。張は[[南陽市 (河南省)|宛]]に駐屯し、劉表軍と合流した。
 
建安2年([[197年]])春、曹操が南陽郡に侵攻し淯水に陣営を置くと、張は軍勢を引き連れて曹操に降伏した。ところが、曹操が亡き季父の[[張済 (後漢の武将)|張済]]の妻であった未亡人を側妾にしたために、張は恨みを抱くようになった。曹操は張が恨んでいる事を知ると、密かに張を殺害する計画を立てた。しかし張はこの計画に気づくと、賈詡の進言を容れて、曹操に奇襲をかけた。この奇襲で張は、[[曹昂]]・[[曹安民]]・[[典韋]]などを含む多くの将兵を討ち取り、勝利を得た。曹操が舞陰に撤退すると、張は[[騎兵]]を引き連れて舞陰を攻めたが、撃退された。このため張は再び劉表と同盟を結び、穣に駐屯した。曹操が[[許昌]]に帰ると、南陽郡の諸県は曹操に反逆し、再び張に味方する事になった。
 
その後も、張・劉表は曹操と抗争を続けた。建安3年([[198年]])に曹操が穣に攻め寄せた時は、劉表の派遣した援軍のおかげで、張は勝利した。曹操は張に退路を絶たれたので、撤退すらままならなくなったが、[[伏兵]]を用いて張軍を大いに破った。曹操軍の[[荀攸]]によれば、張軍はまるで劉表軍の遊撃隊のようであり、また劉表に食料を頼っていたという。
 
建安4年([[199年]])11月、当初張は[[袁紹]]からの同盟の誘いを受けるつもりであったが、賈詡から「大勢力たる袁紹との戦いを控えた今の曹操は、味方になる勢力を必ず厚遇するでしょう」と進言され、これに従って曹操に帰順し[[列侯]]に封じられた。帰順後、張の娘は[[曹均]]の妻として迎えられている。建安5年([[200年]])、[[官渡の戦い]]で武功を挙げ破羌将軍に昇進した。また曹操に従い[[袁譚]]を破ったため、加増を受けて領邑が合計2,000戸になった。しかし建安12年(207年)、柳城の[[烏桓]]征伐中に陣中で病死した。定[[]]と[[諡|諡号]]を贈られた。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏志張伝が注に引く『[[魏略]]』によると、張は曹昂の異母弟である[[曹丕]]の元へ、何度か頼み事に赴いた。しかし曹丕からお前は私の兄を殺したのに、どうして平気な顔をして会えるのだと言われたために、これに不安を感じ自殺したのだと言われている。
 
子の張泉が後を継いだが、建安24年([[219年]])に[[魏諷]]と共に曹家政権の転覆を目指すクーデターを謀って失敗し、領地を没収され処刑された。
 
== 物語中の張 ==
小説『[[三国志演義]]』にも登場し、ほぼ正史通りの活躍を演じているが、曹操に降伏した後は登場しない。賈詡の進言を良く聞く人物として描かれている。
 
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=== 演義のみ ===
* [[張先]]:『演義』第17回に登場。雷叙と同じく南陽城外へ張に従い出陣。曹操軍の[[許褚]]と[[一騎討ち]]するが、わずか3合で斬って捨てられている。
* [[雷叙]]:『演義』第17回に登場し、南陽城外で曹操軍を迎撃するために張に従い出陣。活躍は特にない。
 
== 脚注 ==