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'''格物致知'''(かくぶつちち)とは、[[儒学]]の[[術語]]で、伝統的に様々な[[解釈]]のある複雑な概念である。'''格致'''(かくち)とも略される。『[[礼記]]』大学篇(『[[大学 (書物)|大学]]』)の一節「致知在格物、物格而知至」に由来する。
 
とりわけ、[[宋代]]以降の[[哲学]]的な儒教([[宋明理朱子学]])において重要視され、'''格物窮理'''(かくぶつきゅうり)とも言い換えられた。すなわち『[[易経]]』説卦伝の一節「窮理盡性以至於命」([[理]]を窮(きわ)め[[人性論|性(せい)]]を尽くし以て[[天命|命(めい)]]に至る)の「窮理」と結びつけられ、「事物の[[理]]を探究する行為」を意味した<ref name=":0">{{コトバンク|2=湯川敬弘・小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>。
 
== 概要 ==
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重視されるようになったのは、[[北宋]]の[[程頤]](1033~1107)が格物を窮理と結びつけて解釈してからである。彼は自己の知を発揮しようとするならば、物に即してその[[理]]を窮めてゆくことと解釈し、そうすることによって「'''脱然貫通'''」(だつぜんかんつう)すると述べた。
 
[[南宋]]の[[朱熹]](1130~1200)はその解釈を継承し、『大学』には格物致知を解説する部分があったとして『格物補伝』を作った。ここで格は「至(いたる)」、物は「事」とされ、事物に触れ理を窮めていくことであるが、そこには[[読書]]も含められた。そして彼はこの格物窮理と[[居敬]]を「聖人学んで至るべし」という[[聖人]]に至るための方法論とした。この時代、[[経書]]を学び、[[科挙]]に合格することによって[[官僚]]となった[[士大夫]]に対し、格物致知はその理論的根拠を提供した形である。しかし、格物は単に読書だけでなく事物の観察研究を広く含めたため、。<!-- 後に格物や格致という言葉は今でいう[[博物学]]を意味するようになった。 -->そのような背景のもと、[[幕末]]には[[福沢諭吉]]の『[[窮理図解]]』など、西洋の[[自然科学]]を導入するに際して「窮理」の語彙が使われた。(「[[哲学#「理学」]]」も参照。)
 
一方、[[明代]]中葉の王守仁([[王陽明]]、1472~1528)は、「格物」は外在的な物に至るというものではなく、物を「正す(格す)」として、自己の心に内在する事物を修正していくこととし、「致知」とは先天的な道徳知である良知を遮られることなく発揮する「[[致良知]]」だとした。ここで格物致知は自己の心を凝視する内省的なものとされた。また[[清]]初の[[顔元]]は「格物」を「犯手実做其事」(手を動かしてその事を実際に行う)とし、そうすることによって後に知は至るとした。ここで格物致知は実践によって知を獲得していくこととされている。
近代になり、西洋から[[自然科学]]を導入するに際して格物や格致が使われたのもこのためである(ちなみに日本では窮理から理科や理学の語を当てたと考えられる)。
 
一方、[[明代]]中葉の王守仁([[王陽明]]、1472~1528)は、「格物」は外在的な物に至るというものではなく、物を「正す(格す)」として、自己の心に内在する事物を修正していくこととし、「致知」とは先天的な道徳知である良知を遮られることなく発揮する「[[致良知]]」だとした。ここで格物致知は自己の心を凝視する内省的なものとされた。また[[清]]初の[[顔元]]は「格物」を「犯手実做其事」(手を動かしてその事を実際に行う)とし、そうすることによって後に知は至るとした。ここで格物致知は実践によって知を獲得していくこととされている。
 
従って「致知在格物」の読み方もそれぞれ異なり、朱子は「知を致すは物に格(至)るに在り」と読み、王陽明は「知を致すは物を格(正)すに在り」としている。