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{{Other uses|東アジアの暴君放伐論|ヨーロッパの暴君放伐論|モナルコマキ}}
 
'''放伐'''(ほうばつ)とは、[[中国史]]において、次の[[天子]]となるべき有徳の[[諸侯]]などが、無道な[[暴君]]や[[暗君]]を天下のために、討伐して都から追放するという行為であをさす。[[殷]]の[[湯王]]、[[周]]の[[武王 (周)|武王]]のような、次の[[天子]]となべき有徳の[[諸侯]]が行った
 
== 概要 ==
かつて『[[史記]]』などによれば、[[三皇五帝]]中国の伝説時代おいては、[[天子]]の位は[[世襲]]ではなく有徳な君主から有徳な人物へ天子の位がられた(伝説上の[[禅譲]])とされ。しかし[[夏 (三代)|]]の時代にいたって[[世襲]]制度になった。その世襲の王朝が交替する場合は際に、放伐がなされるようになった。[[夏 (三代)|夏]]王朝の末期に暴君[[桀]]王を[[殷]]の湯王がうち破ったのが最初であるとされる
 
[[夏 (三代)|夏]]王朝の末期に、[[殷]]の[[湯王]]が夏の暴君[[桀]]王を放伐したのが最初であるとされる。ただし夏王朝の実在性については、未だ議論の最中であり、確定はしていない。歴史上明らかな放伐の最初は、[[殷]]王朝の末期に、[[周]]の武王が[[武王 (周)|武王]]が殷の暴君[[帝辛|帝辛(紂王]]を討った事例である(『[[史記]]』の記述)
 
湯王と武王の故事に由来するので'''湯武放伐'''(とうぶほうばつ)ともいう。その名の通り、その後の中国史においては、放伐の事例はあまり見られない。実質上は明らかな放伐であっても[[禅譲]]の形式を踏んだり、漢民族以外の異民族の侵入によって王朝の交替がなされた。
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*[[天命]]
*[[易姓革命]]
*[[史記]]
 
== 出典 ==